私の職場論 −− 『人間中心の職場作り』

はじめに

★「希望」に応えられる「教育」
 今日はある参加型セミナーの当日だ。あらかじめレジュメが配信されていたので、プリントしたそのレジュメを持参することになっている。もちろん前夜、読み込んでおいた。
 この日を楽しみにしていた。どんな参加型セミナーになるのか。講師はどんな人なのか。どんな教訓を得られるのか。どんな知恵・知識を得られるのか。どんな成果があるのか。小さな希望に胸を弾ませて会場に向かう。
 子供から大人になっていく何度かの転機に、同じようでもあり、そしてもっと大きなようでもある「希望」を、少なくても私は感じてきた。小学校に入学したとき、小学校から中学校に進学したとき、中学校から高校に進学したとき、高校から大学に進学したとき、そのときどきに少なくても私は希望に胸を弾ませた。新たな知恵・知識の習得、その結果としての自分の成長を夢見ていた。新しい学校での教育に大きな希望を持ち、人生の転機を迎えたのである。
 あるいは私のような「希望」は、受身な姿勢の結果に過ぎないのかもしれない。もっと能動的な姿勢を持たなければ、教育の成果としての成長などと言うものは獲得できないかもしれない。教育の成果を教育する側に責任転嫁するのは良くない。成長するとか、成長しないというのはあくまでも自分の教育を受ける姿勢のあり様なのである。あくまでも自己責任だ。そのように考える人がいるかもしれない。
 しかし、中小企業診断士としてセミナーの講師を勤め、教育する側にいることもある私としてはあえて問いたいと思う。小学校、中学校、高校、大学で行われている現在の日本の「教育」は、優れて、教育を受ける子供や若者を成長させるものになっているのか。教育を受けるときどきの、人々の「希望」に応える教育になっているのか、と。
 私だけでなく、教育に抱いた何度もの「希望」を打ち砕かれた人は意外に多いのではないか。そんな考え方を65歳になったいまの私はしてしまう。教育を受ける人々の「希望」に応えられるような、より優れた教育というものが問われなければならないのだ。それは私だけの受身に過ぎる考え方なのだろうか。

★「希望」を持てない「職場」
 「教育」は人々にとって「希望」であると述べた。それでは、就職という人生の転機に、人々はどのような感慨を抱くのだろうか。「教育」に対して感じるような「希望」を抱き得るのだろうか。この質問に対する私の見方は、かなり悲観的である。現代の人々は、会社などの新しい職場に対して、ほとんど「希望」を持てない状態に陥っている、と思うのである。
 社会人として企業で働く若者からこんな話を聞いたことがある。「職場だから、そのくらいのことはあると思いますよ。決して良いことではないのでしょうが・・・」。
 どうやらその若者は、職場での人間関係に苦しんでいるようだった。けれども、職場においてはそのくらいに悪辣な人間関係があることを覚悟していた、ということのようだった。「会社だから、職場だから」と諦めの感情を抱いてしまっているのである。
 「ブラック企業」という言い方が、2014年の現在、メディアを賑わしている。あのアパレル販売会社がブラック企業だ、あの居酒屋チェーンがブラック企業だ、あの家電メーカーは追い出し部屋がありブラック企業だ、等々、メディアを大いに賑わしている。その意味するところを類推すると、「従業員に過酷な労働を強い、法律すれすれの過度にきつい労務管理をする企業」ということにでもなろうか。そして、学生はもちろん、社会人の間でも、ブラック企業には就職したくない、と考える人が多くなっている。
 しかし私は、この「ブラック企業」という会社への(職場への)名付けについて考えてしまう。「ブラック企業」という汚名に値しない、人間(従業員)中心に考えてくれるような「ホワイト(?)企業」が果たしてどこにあるのだろうか。現代のほとんどの会社、職場が、実は「ブラック企業」なのではないか。そして学生や社会人のほとんどが、就職という人生の転機において、そう認識してしまい、会社や職場に対して「希望」を持てない状況にあるのではないか。私はそんな考えを抱いてしまったのである。
 これが、『私の職場論――人間中心の職場作り』という論述をしてみようと思った最大の動機である。人々が「希望」を持てない会社、職場とは、どのような「場」なのか。どのような関係性を持っている「場」なのか。そして「人間中心の職場作り」とはどのようなものか、そういうテーマで論述してみたい。私の身丈には不相応な大きなテーマを持ってしまったことに戸惑いつつ、少しずつ論述を進めていくことにしよう。


ペー ジトップへ戻る

株式会社ワイズリンク
代表取締役 砂田好正

ワイズリンク トップページへ