私の職場論 −− 『人間中心の職場作り』

第3章 パワハラが横行する職場

★「パワハラ」「モラハラ」の定義とその種類
『職場で他人を傷つける人たち』香山リカ・著(2012年6月20日発行 KKベストセラーズ・ベスト新書)
この本に、パワーハラスメント(パワハラ)の定義がある。

@2012年3月、厚生労働省に設置された「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議」とワーキング・グループの「職場のパワーハラスメント」における定義
【職場のパワーハラスメントとは、同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為をいう。】

A岡田康子・飯尾和泉『パワーハラスメント』日経文庫、2011年の定義
【パワハラとは、職務上の地位または職場内の優位性を背景にして、本来の業務の適正な範囲を超えて、継続的に相手の人格や尊厳を侵害する言動を行うことにより、就労者に身体的・精神的苦痛を与え、また就業環境を悪化させる行為である。】
 
この二つの定義について香山は次のような注釈を付けている。
 両者の定義はだいたい同じだが、厚労省の定義には「人間関係」という単語が入っているのが目につく。

 ここで注意しなければならないのは、「パワハラ」という用語は、「職場において、上司が部下に対しての、その権威による嫌がらせ」という意味あいが強い。しかし職場においては、こうした上下関係における嫌がらせ以外に、学校における「いじめ」や共同体における「村八分」に近い形での嫌がらせが発生する。それらは「モラル・ハラスメント(モラハラ)」という用語のほうが、より適切であるのかもしれない。

 以下の2冊の本に、「モラル・ハラスメント(モラハラ)」の定義がある。

『モラル・ハラスメント――人を傷つけずにはいられない』マリー=フランス・イルゴイエンヌ(フランスにフランスの女性精神科医)著、高野優・訳(1999年12月20日発行 紀伊國屋書店)
『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』前書と同じ著・訳者(2003年2月17日発行 紀伊國屋書店発行)
【モラル・ハラスメントとは、ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のことである。】

【職場におけるモラル・ハラスメントとは、不当な行為(身振り、言葉、態度、行動)を繰り返し、あるいは計画的に行うことによって、ある人の尊厳を傷つけ、心身に損傷を与え、その人の雇用を危険にさらすことである。また、そういったことを通じて職場全体の雰囲気を悪化させることである】

 さらに 厚生労働省に設置された「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議」(2012年3月発表)によると、「職場のパワハラの種類」は、次のとおりである。
 @暴行・障害(身体的な攻撃)
 A強迫・名誉毀損・侮辱・ひどい暴言(精神的な攻撃)
 B隔離・仲間外し・無視(人間関係からの切り離し)
 C業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害(過大な要求)
 D業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや、仕事を与えないこと(過小な要求)
 E私的なことに過度に立ち入ること(個の侵害)

 職場における、「パワハラ」や「モラハラ」の定義、行為の種類を前提にして、この章において職場の関係性を論述していくことにしよう。職場での「パワハラ」や「モラハラ」は、ネガティブな意味ではあっても、「人間中心の職場作り」には欠かせない考察である。そのうえでの「パワハラ」や「モラハラ」についての記述をしていこう。その場合、特に「パワハラ」と「モラハラ」を区別したり、引用したりする場合以外は、その両者を括って、「パワハラ」という用語に統一する。

★身体的暴力によるパワハラ
「職場のパワハラの種類」は、具体的に、パワハラ行為の種類を示したものである。この中で、「@暴行・障害(身体的な攻撃)」は、もっとも明確なパワハラ行為である。
 以前の私は、職場における身体的暴力が実際に、多くあるとは思っていなかった。しかし、2013年になって、女子柔道の指導者が選手に身体的暴力を振るって指導したことが大きな問題になった。また、高校などの部活における、身体的暴力による指導が問題視されている。これらは、職場のパワハラに近いものであり、女子柔道選手や高校などの部活の選手が所属するスポーツ界においては、私が考えている以上に暴力によるパワハラ行為が、指導として行われていたのである。
 それらの報道を見聞きした私は、数年前の、ある量販店で上司が部下の店員に暴力を振るったという職場での事件を思い出した。そしてスポーツ界だけでなく、どんな職種の職場にも、そうした身体的暴力によるパワハラ行為が、想像以上に多いことに気づいたのである。
 ここで注意しなくてはいけないのは、こうしたパワハラ行為としての身体的暴力が、指導者としての上司によって行われていることである。すなわち、「教育的指導」として行われているのである。スポーツ界においては、それが強い選手を育成する最良の方法だとさえ考えられている。
 また一般的な職場においては、上司が部下を指導する、教育するというのは必須なことである。上司は部下に対して教育的指導をするし、部下のほうも仕事を覚えるという意味で成長しなくてはいけないとされる。それがすべての職場にある考え方である。その考え方自体の中に、身体的暴力が入り込んでしまうということである。
 その教育的指導という上司の動機は、職場の中では、むしろ正しいとされているのだ。ヒエラルキー型組織において、それを越える理念は現状ではない。その正しいかもしれない動機の中に、身体的暴力に走ってしまう落とし穴があると考えられる。
 ここで私は、「教育的指導」としての身体的暴力についてどのように考えるべきなのか。スポーツ界における身体的暴力について、ヒントになる新聞記事を見つけたので、次節で紹介しよう。そのうえで職場における、パワハラ行為としての身体的暴力を考えてみたい。

★暴力に関する新聞記事
朝日新聞2013年1月12日(土)朝刊社会面(39面)
【見出し】
体罰の常態化認める
大阪・高2自殺 部顧問、市教委に
「強い部にするには必要」

【前文】
 大阪市立桜宮(さくらのみや)高校のバスケット部主将の2年男子生徒(17)が顧問の男性教諭(47)の体罰を受けた翌日に自殺した問題で、市教委は11日、聞き取り調査の全容を明らかにした。教諭は自殺前日、試合中に両手で顔面を4、5回たたき、頭を4、5回平手で殴ったと説明。部員への体罰が常態化していたことも認めたという。
【本文】
 自殺から5日後の昨年(2012年)12月28日、市教委事務局で約1時間にわたって聞き取った。教諭は泣き出したり、言葉に詰まったりしながら答えたという。
(中略)
 そのうえで「強いクラブにするためには体罰は必要。ただ(男子生徒には)厳し過ぎたと思う」「気持ちを発奮させたいがためにそうした」とし、12月18日の練習試合の合間にも、コート内で平手でほおを2、3発、指の部分で側頭部を数回たたいたことを認めた。
体罰なしの指導は無理だったのかの問いには「できたかもしれない。ただ、たたくことで良い方向に向く生徒もいた」。体罰が常態化していたのかと聞かれると、小さな声で「はい」と答えたという。
(後略)
【見出し】
「厳しい処分を」生徒の両親
【本文】
 大阪市教委の長谷川恵一教育委員長らは11日、生徒宅を弔問して陳謝。両親は「(体罰に苦しんだ)息子の思いを十分にくんでほしい。厳しい処分をお願いします」と語ったという。永井哲郎教育長は弔問後、「問題をしっかり調査する」と話した。

朝日新聞2013年1月9日(水)朝刊社会面(39面)
【見出し】
処分の教員年400人

【本文】
文部科学省は通知で、体罰を「身体に対する侵害(殴る、蹴るなど)」「肉体的苦痛を与えるような懲戒(長時間の正座、直立)」と定義。学校教育法で禁じている。
 だが体罰で懲戒処分を受けた教員は、この数年は年350〜400人の間で増減を繰り返し、なくなる気配はない。2011年度は404人で、特に中学、高校の体育の授業や部活中に殴ったり蹴ったりするパターンが多く、体罰をふるわれた子の4割が頭部打撲、鼓膜損傷、骨折などのけがをしている。文部科学省の「児童生徒の自殺」にかかわる統計では、自殺の理由に厳しい叱責や指導など教職員との関係が挙がったケースは、08〜10年度に中学・高校で5件あった。

★元プロ野球選手・桑田真澄氏の見解
朝日新聞2013年1月12日(土)朝刊社会面(39面)
【見出し】
中学まで毎日練習で殴られた
体罰に愛を感じたことはない
元巨人・桑田さん「自立妨げる」

【前文】
 体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。
【桑田真澄さんの経歴】
大阪府出身。PL学園高校時代に甲子園で計20勝を記録。プロ野球・巨人では通算173勝。米大リーグに移り、2008年に現役を引退した。09年4月から1年間、早稲田大大学院スポーツ科学研究科で学ぶ。現在はスポーツ報知評論家。今月、東京大野球部の特別コーチにも就任。著書に「野球を学問する」(共著)など。
【本文】
 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。今でも思い出したくない記憶です。
 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。
 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。
 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。
 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。「タイミングが合ってないよ。他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、指導です。
 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が、多くの本で紹介されています。子どもが10人いれば10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。
 「練習中に水を飲むとバテる」と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。でも今、適度な水分補給は常識です。スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。
 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、自分でプレーの判断ができません。
 殴ってうまくなるなら誰でもがプロ選手になれます。体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」と言う人もいます。私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。
 アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。今回の残念な問題が、日本のスポーツ界が変わる契機になってほしいと思います。(聞き手・岡崎一郎)

★教育的指導としての身体的暴力
 前々節の新聞記事と前節の桑田真澄氏の見解を読んでいただけたろうか。
前々節は、2013年に起きた高校生自殺の記事である。その原因になったスポーツ部の指導者による身体的暴力について書かれている。また、こうしたスポーツ部の指導において身体的暴力が広く行われている実情が書かれている。事実としての現状を示すものである。
 前節は、そうした身体的暴力についての桑田真澄氏の見解である。その現状に対する良識としての見解が示されている。プロ野球でスター選手となった人の見解だけに、私のこの文章における見解を述べるにあたり、大いに勇気付けられることとなった。そして、この桑田氏の見解を参考にして、私の見解が作られている。
 なお、桑田真澄氏は平田竹男氏との対談・共著で『野球を学問する』という本を新潮社から発行している。この本の一部においても、身体的暴力についての、同様の見解が示されている。またこの本からは、桑田氏が大学院生として完成させた野球界をテーマにした論文について、それに取り組む真摯な姿勢が読み取れる。私は同書を一読したのであるが、久々に良書と感じられた。
 さて、教育的指導としての身体的暴力についての私の見解である。私は、身体的暴力を全否定できないにしても、最高の倫理観を持って実行されるべき行為だと思っているのだ。
 身体的暴力一般について、現状の社会的通念においては全否定できないものかもしれない。自己防衛としての身体的暴力は、否定されるべきものではない。また、愛情に裏打ちされている場合など、肯定されるべきケースもあるだろう。言葉ではわからない場合、愛のムチとしての身体的暴力もあり得るとは思う。
 しかし、私の見解の結論を述べれば、身体的暴力は最高の倫理観を持って実行されるべきなのだ。最高の倫理観に裏打ちされていない限り、特に教育的指導としての身体的暴力は実行されるべきではない。ぎりぎりの、最後の手段なのである。
 桑田氏がスポーツ指導における身体的暴力を否定しているのも、最高の倫理観が欠如した、安易なそれの否定だと思われる。逆に、教育指導において身体的暴力が頻繁に広く行われていることは、教育的指導という理念が身体的暴力に安易に走りやすい、その危うさを示しているようにも思われる。
 スポーツ界における指導者の身体的暴力について見てきたが、職場の上司と部下の関係性においても同様のことが言える。もちろん、怒りやすく、粗暴なタイプの上司というものもいるだろう。そうしたタイプの上司は、それこそパワハラで告発されてしまうだろう。ただ、教育的指導としての、上司の叱責としての身体的暴力というケースも多くある。そうした身体的暴力についても、私はスポーツ界における桑田氏と同じ立場を採用したい。私の言い回しを使えば、ここでも、最高の倫理観のない、安易な身体的暴力は否定されるべきなのだ。紛れもないパワハラ行為として否定されるべきなのだ。そうした考え方が、職場のパワハラが注目される現状において、社会的に認識されなくてはならない。

★主体的な思考を念頭に
 「お前なんて辞めちまえ」
「この会社にお前のカネは一円もないのだぞ」
 このようなことを上司から言われたことはないだろうか。
 私のような60代の世代は、かつての職場では、こうした言動は普通に、当たり前に行き交っていたことを知っている。自分が言われたこともあるし、上司が部下に言うのを聞いたこともある。そのため、「職場にはそんな言動は多く行き交うのであり、安易にパワハラだと断定しないほうが良い」という意見も、一面の正当性があるかもしれない。パワハラという用語が人々の間で言われるのはつい最近である。かつては、このような言動もパワハラとして認識されていなかった。
 こうした歴史的推移をみても、職場というのはパワハラが生じやすい場所である、とつくづく思う。多くの職場がそうであるような、上意下達のヒエラルキー型組織の中では、権威を背景にしたパワハラが生じてしまいがちである。
 そして私は、この節の冒頭のような言動をパワハラだと認識することから、改めて出発したいと思う。なぜならば、このような言動が行き交うことで、職場は殺伐とし、荒れてしまうのである。快適に働くことができないのである。その結果、仕事の効率が下がってしまう。だからこそパワハラとして否定されるべきなのである。それが、この論述の「人間中心の職場作り」に欠かせない視点である。
 そのうえで職場のパワハラについて考える場合、私たちは、その加害者になることも、被害者になることも、可能性として大いにあり得るという視点を持ちたい。被害者になりやすいと考えるだけでなく、加害者になることも大いにあり得るのだ。そして自らを振り返り、自省し、抑制するという、主体的認識が求められている。そうでなければ、パワハラのない職場は実現しない。その所属員一人一人が、そういう自省的、主体的な認識を必要としている。そのことを念頭に置きながら、「パワハラの横行する職場」をさらに考えていきたい。

★判定・断定の難しさ
 再度、厚生労働省に設置された「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議」(2012年3月発表)による、「職場のパワハラの種類」をここに掲示する。
 @暴行・障害(身体的な攻撃)
 A強迫・名誉毀損・侮辱・ひどい暴言(精神的な攻撃)
 B隔離・仲間外し・無視(人間関係からの切り離し)
 C業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害(過大な要求)
 D業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや、仕事を与えないこと(過小な要求)
 E私的なことに過度に立ち入ること(個の侵害)

 ここに示されたパワハラの種類において、A〜Eはいずれも精神的暴力によるパワハラだと言ってよい。ところで私は、@の身体的暴力はパワハラとして判定・断定しやすい、とこの章で述べた。一方、A〜Eの精神的暴力によるパワハラは、パワハラとして判定・断定しづらいことを特徴としている。
 ここで私は、私自身が大学生であった20代の前半に、サークルの数名から精神的暴力によるパワハラ(モラハラと呼ぶべきかもしれない)を受けたのではないか、という疑念を持っていることを告白したい。65歳になる現在の私は、どのような精神的暴力であったかについて、記憶があいまいである。だから、その私が受けたと思われるパワハラを、具体的に書くことを差し控えたい。具体的に書きづらいのである。
 ただ私はそのころ、精神的に傷つく体験をした。そこから回復するには、その後の長時間の努力を必要とした。そのパワハラは、元々傷つきやすい性質を保持している私が、単に人間関係に傷ついただけかもしれない。私自身も明確ではないのだが、パワハラまがいのことがあったと思っているのだ。いまとなっては、それがパワハラであり、他者からの精神的暴力だった、と判定・断定することはできない。
 そもそもA〜Eのような精神的暴力によるパワハラは、そうだと判定・断定することが難しいのではないか。たとえばAの中にある「ひどい暴言」にしても、自分を奮起させるために言った「愛のムチ」「激励」と取れないこともない。「愛情から発言されたもの」と解釈することもできる。Cの「過大な業務上の要求」があっても、指示を受けた自分が評価されている結果だ、と解釈できないこともない。いずれも精神的に傷ついたという事実はあったとしても、それが精神的暴力であり、パワハラだと判定・断定することは難しい。
 パワハラをテーマにした裁判においてはさらに難しいはずだ。身体的暴力とは違い、精神的暴力によるパワハラは、その暴力としての発言や指示の動機は、いずれも抽象的である。被害者が説明しづらいものである。そのため裁判による判断は、さらに難しいものにしている。最近では被害者が勝訴する判決も多くなっているようだ。しかし、被害者が告訴するまでに持っていくのは難しいし、裁判所に違法性を判定・断定してもらうことは、さらに難しい。
 精神的暴力によるパワハラは、その判定・断定が難しいという性格を持っている。そのことが、「職場に横行するパワハラ」という問題を抽出し、解決することを、より一層、困難なものにしている。

 言葉にして「名づける」ことができないものは存在しないと同然なのだ。
 だからこそ、何か問題があったら、その問題をそれにふさわしい言葉で「名づける」ことが大切なのである。
(P71「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「モラル・ハラスメントの方法」)

★第三者としての仲介者
 再掲になるが、この「第3章パワハラの横行する職場」を書くために、下記の2冊の本を読んだ。これらは、私には最上の本に感じられた。パワハラ(モラハラ)について興味のある人には、ぜひ一読を勧めたい。この私の文章に多大な影響を与えている2冊の本から引用したり、示唆を得て書いたりして、さらに書き進めることにしよう。すべてがAの引用であるが、文章を考えるうえで参考にしているのは、@Aの2冊である。
@『モラル・ハラスメント――人を傷つけずにはいられない』マリー=フランス・イルゴイエンヌ(フランスにフランスの女性精神科医)著、高野優・訳(1999年12月20日発行 紀伊國屋書店)
A『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』前書と同じ著・訳者(2003年2月17日発行 紀伊國屋書店発行)

この本の中でも強調されていることなのだが、加害者からパワハラを受けている被害者にとって、第三者である仲介者に話す、相談するということがとても大切である。話し、相談するだけで安心することができ、さらにアドバイスを受けることによって、解決に近づくことも多い。パワハラの問題解決には、仲介者への相談が不可欠である。
では、この場合の仲介者とは、どのような機関、人物であろうか。A第13章を参考にしながら、私なりに考えてみた。概ね、次のような機関、人物が考えられる。
※内部の仲介者
 ・社内にある委員会
 ・(社内にある)労働組合
 ・(社内の)産業医
 ・(直接の加害者でない)上司
 ・(直接の加害者でない)同僚
※外部の仲介者
 ・一般医
 ・精神科医およびセラピスト
 ・労働基準監督署
 ・弁護士・社会保険労務士
 ・支援団体(労働組合やNPO)
 ・会社のコンサルタント
 ・社外の友人
 ・家族

 これらの機関、人物が、被害者にとって相談する場合の、第三者としての仲介者である。
 パワハラを受けた被害者は、仲介者に相談しづらいという性質を、パワハラ問題は保持している。しかしその一方で、パワハラ問題を当事者同士で解決することは非常に難しい。そこで、第三者としての仲介者がどうしても必要であり、上記の機関、人物に相談することになる。
 ここで私は「しかし」という注釈を付けて、次の節に進むことにしよう。「しかし」、ここにあげた機関、人物は、パワハラについての相談を被害者から受けた場合、果たして解決するノウハウを保持しているのか、と疑問に思うのだ。これらの仲介者に相談することで、解決する場合もあるとは思う。しかし一方で、現在の日本において、特にパワハラの問題については、問題の解決にならないケースが非常に多いと思うのだ。パワハラの被害者は、仲介者への相談を勧められるのだろうが、解決されないことも多くあるとのことを知っておくことが必要だ。

★相談ノウハウの欠如
 寄り道になるかもしれないが、「相談」ノウハウについて言及したい。私は、現在の日本は「相談」ノウハウの不毛地帯にあり、欠如していると思っている。そのことについて、私の体験に基づいて記述したいと思う。
 私は最近、いとこの後見人問題で、法律的にどのようになっているかを知りたいと思い、ある弁護士に「相談」した。問題の所在を話した私に対して、その弁護士は非常に荒っぽい口調で見解を述べた。余りに荒っぽい口調なので、私はそれこそ精神的暴力によるパワハラを受けていると感じるほどであった。結局、私の考えている問題の所在は不明なまま、その弁護士とは関係が切れた。その後に不安だった私は、今度は司法書士に電話で「相談」した。ところがこちらも前述の弁護士と同じような対応であった。とにかく荒っぽい対応に終始されたのである。
 私は、「相談」というのは、まず相談者の話を聞くことから始まるものだと思う。私はカウンセリングの本を読んだことがあるが、そこでは「傾聴」ということが大切な技法とされている。「相談」も同じことだというのが、私にとっての常識である。
 結局、いとこの後見人問題は、弁護士や司法書士の助力を得ることなく解決した。それにしても彼らの対応はひどいものであった。「相談」ノウハウが欠如しているとしか思えなかった。
 それで思い出したのだが、父親が亡くなったとき、私はある会社の社長に、遺産相続問題で「相談」しようと思った。そして少し事情を話したのであるが、これも「相談」にならなかった。実際に行動するのは私であり、その社長に迷惑を掛けるつもりはなかった。しかしその社長の対応は、面倒なことに顔を突っ込みたくないのか、ぞんざいなものだった。
 またこのときに、遺産相続の実務は、ある税理士に依頼したのだが、その税理士も「相談」ノウハウを持っていなかった。遺産相続についての「相談」にはほとんど乗ってくれなかった。私の遺産相続は、すでに解決して長年が経過するが、私には、前述の社長や税理士に対して不満が残っている。
 もう一つ言えば、自治体の公務員の「相談」ノウハウにも不満を感じる。公務員は、我々が相談すれば、側面からの支援をしなければいけない立場だと思う。しかし適切な「相談」ノウハウを持っているとはとても思えない。もう少し適切な対応ができないものかと不満を感じるのは私だけだろうか。
 こうしたいくつかの体験で思うのは、現在の日本は「相談」ノウハウの不毛地帯だということだ。弁護士、司法書士、税理士の専門家だけでなく、公務員や一般の人も持っていない。そんな「相談」ノウハウの欠如した専門家、公務員、一般の人が多いのだ。それは私の体験から得た実感である。対象者に寄り添った「相談」ということが求められている。そういう理念に基づいた「相談」ノウハウが、より広がることが期待される。
 本題に戻ろう。パワハラを受けた被害者が、前節で示した機関や人物に「相談」した場合、現在の日本では、適切に対応してくれるのかどうか、私にはとても不安である。すなわち、その機関や人物は、多くの場合適切な「相談」ノウハウを持っていないと思うのだ。パワハラについての「相談」の場合、特にそういう傾向が強いと思う。
 そういう日本の現状が、パワハラ問題をより難しくしている。逆に言えば、パワハラ問題をより適切に解決するためには、適切な「相談」ノウハウが確立されることが必要である。前節で示した第三者としての機関や人物に対して、適切な「相談」ノウハウの確立を期待したい。

★被害者に同調する相談
 相談を受けた側の「相談」ノウハウについて、さらに記述していこう。
 最近、「ブラック企業」という言い方が広く流布されている。労働条件が悪く、過酷な労働を強いる企業のことを意味する用語である。ときには労働基準法さえ守らないような、法律すれすれの労働条件を強いる企業を意味する。
 そういう「ブラック企業」は、経営環境が悪化し、効率化による費用削減に走る日本企業において増えている。そして問題視されている。高校生や大学生などの学生が就職する際、「ブラック企業」を避けたいという要望が強まっている。また、「ブラック企業」に就職した生徒や学生が、そのことを理由にすぐに辞めてしまうことも問題となっている。
 多くの日本人が、その「ブラック企業」の労働条件の改善を主張しているのも事実である。しかしその一方で、「ブラック企業と言って、そこから逃げる風潮は良くない。そのくらいのことは会社だから当然、ある。それでも働き続ける気概が必要だ。我慢強くなければならない」と、企業側に同調的な意見が多く見られるのである。家族や企業関係者の多くが、企業経営のひどさを指摘しないで、企業側に同調的な意見を表明するのである。
 このような主張に対峙して、私の意見は異なる。前述の意見は、「ブラック企業」で働く人々の気持ちを理解しているとは言えない。企業に問題があることは普通に考える以上に多いのであり、批判されるべきは企業側である場合が多いのだ。そのため「ブラック企業」のような企業に同調する立場を採用すべきではない。逆に「ブラック企業」で働く人々の側に立って、彼らの職場で置かれている境遇に同調すべきなのである。
 本題に戻ろう。パワハラを受けた被害者が、その窮状を外部の友人やパワハラと関係していない同僚や上司に「相談」したとしよう。そのとき、その「相談」を受けた多くの関係者が、当の被害者ではなく、被害を及ぼしている加害者側に同調した意見を表明するのではないだろうか。それは、「ブラック企業」に直面して、その劣悪な労働条件について相談した場合と同じことだと思うのだ。「パワハラだと言って、そこから逃げる風潮は良くない。そのくらいのことは会社なのだから当然、ある。それでも働き続ける気概が必要だ。我慢強くなければならない」。さらには、「あなたはあまい」「おかしいのはあなたのほうだ」「あなたのほうが反省しなくてはいけない」という言辞が返ってくるのではないかとさえ思う。
 私のいくらかの経験から言って、パワハラを受けた被害者が相談した場合、半分の人はそういう対応をするのではないか。そこまでひどくなくても、けんか両成敗ではないが、被害者と加害者との中間、中立的なアドバイスになってしまうのではないか。そして被害者は、こうした言辞でアドバイスされるのを不安に思い、相談することを躊躇してしまうのではないか。
 相談を受けた人の、そうした相談対応は、「相談」ノウハウとして採用すべきではない。これでは正しいものとは言えない。前節で記述したように、被害者の側に立って「傾聴」することが大切であり、「寄り添う」ことが必要である、と私は考える。被害者として、相談する人の身になって、その人がいまどのような境遇に置かれているのかに注目すべきなのだ。被害者の相談内容を理解したうえでの、被害者に同調した相談・アドバイスが必要なのである。
 正しい「相談」ノウハウが欠如していることが、パワハラの被害者の相談しづらい要因になっている。そして私の言う、正しい「相談」ノウハウの確立が待たれる。それが人々の常識として広がることが期待されるのである。

★パワハラの具体的行為
「〈敵意ある言動〉のリスト」として、『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』に以下のように箇条書きされている。これらは、精神的暴力としてのパワハラであり、職場における言動だと言える。身体的、物理的暴力によるパワハラについてはすでに書いたが、よりパワハラとして強く認識しなくてはいけないのは、精神的暴力としてのパワハラである。

1)仕事に関連して相手を傷つける言動
・ 命令した仕事しかさせない
・ 仕事に必要な情報を与えない
・ 相手の意見にことごとく反対する
・ 相手の仕事を必要以上に批判したり、不当に非難する
・ 電話やファクシミリ、コンピュータなど、仕事に必要な道具を取りあげる
・ 普通だったら任せる仕事をほかの人にさせる
・ 絶えず新しい仕事をさせる
・ 相手の能力からすると簡単すぎる仕事を、わざと選んでさせる
・ 相手の能力からすると難しすぎる仕事を、わざと選んでさせる
・ きちんとした理由のある休暇や遅刻・早退、助成金など、労働者として認められている権利を活用しにくくする
・ 昇進ができないようにする
・ 意志に反して、危険な仕事をさせる
・ 相手の健康状態を考えた時、負担の大きすぎる仕事をさせる
・ 職務上、相手の責任になるような失敗を引き起こす
・ わざと実行不可能な命令を与える
・ 産業医の専門意見を考慮に入れない
・ わざと失敗させるように仕向ける
2)コミュニケーションを拒否して相手を孤立させる言動
・ 標的にした社員が話そうとすると、話をさえぎる
・ 相手に話しかけない(上司が部下に、同僚に、あるいはその両方)
・ メモや手紙、メールなど、書いたものだけで意志を伝える
・ 目も合わせないなど、あらゆるコンタクトを避ける
・ 仲間はずれにする
・ 一緒にいても、ほかの人たちだけに話しかけて、存在を無視する
・ 標的にした社員と話すことをほかの社員たちに禁じる
・ ほかの社員と話すのを許さない
・ 話し合いの要求に応じない
3)相手の尊厳を傷つける言動
・ 侮蔑的な言葉で相手に対する評価を下す
・ ため息をつく、馬鹿にしたように見る、肩をすくめるなど、軽蔑的な態度をとる
・ 標的にした社員について、同僚や上司、部下の信用を失わせるようなことを言う
・ 悪い噂を流す
・ 精神的に問題があるようなことを言う(「あいつは精神病だ」等)
・ 身体的な特徴や障害をからかったり、その真似をしたりする
・ 私生活を批判する
・ 出自や国籍をからかう
・ 信仰している宗教や政治的信条を攻撃する
・ 相手が屈辱だと感じる仕事をさせる
・ 猥褻な言葉や下品な言葉で相手を罵る
4)言葉による暴力、肉体的な暴力、性的な暴力
・ 殴ってやると言って、相手を脅す
・ わざとぶつかったりなど、たとえ軽いものであっても肉体的な攻撃を加える。目の前でパタンとドアを閉める
・ 大声でわめいたり、怒鳴りつける
・ 頻繁に電話をかけたり手紙を書いたりして、私生活に侵入する
・ 道であとをつける。家の前で待ち伏せをする
・ 言葉や態度でセクシャル・ハラスメントを行う。性的な暴行を加える
・ 相手の健康上の問題を考慮に入れない

    (P142〜143「第6章モラル・ハラスメントを分類する」「敵意ある言動」)

 モラル・ハラスメントは上司から部下に対してだけ行われるわけではなく、同僚から同僚へ、あるいは部下から上司に対して行われることもある。だが、いずれの場合も、加害者が被害者を心理的に支配するという点は変わらない。(P40「第1章モラル・ハラスメントではないもの」「仕事上の対立」)

★パワハラの起こりやすい職場
 モラル・ハラスメントはどんな職場でも行われる可能性がある。だが、職場のタイプによって、その起こりやすさにはちがいがある。
 この点では、どの研究も結果が一致していて、それによると、モラル・ハラスメントは、サービス関係や医療関係、教育関係の職場で、特に頻繁に起こりやすい。というのも、こういった職場では、仕事の内容がひとつも決まっておらず、評価の基準も曖昧なので、仕事に関して誰かを非難しようと思ったら、容易に非難することができるからである。
(P162「第7章・職場のタイプとモラル・ハラスメント」)

 公的機関と私企業では、モラル・ハラスメントの性質もちがってくる。一般に、私企業の場合は、モラル・ハラスメントの続く期間が短い。だが、そのやり方はより直接的で、たいていは被害者が辞めることで終わりになることが多い。これに対して、公的機関の場合は、モラル・ハラスメントの続く期間が長い――数年はおろか、時には十数年にわたって続くこともある。これは、公的機関の場合、よほど重大なミスを犯さないかぎり、解雇されないからである。また、加害者と被害者がともに同じ職場に長くいるということから、嫌がらせはより間接的――換言すれば、より陰湿なものになり、その結果は被害者の健康に計りしれない影響をもたらす(中略)。
 ところで、公的機関というのは、言うまでもなく、公共にサービスを提供する機関である。そういったことからすると、その場所でモラル・ハラスメントが行われているというのは、かなりショッキングなことである。また、そこでモラル・ハラスメントが行われる理由も、「組織としての効率を高めて、激しい競争に勝ち抜く」ためではないということは明らかである。むしろ、「組織の内部で権力争いをする道具」として、モラル・ハラスメントが使われるのである。(中略)
 また仕事の性質もモラル・ハラスメントを行うのに好都合であると言える。というのも、特に官公庁の仕事では、長期的な展望を与えられないまま、大量の書類の処理を命じられることが多い。したがって、職員はひとつひとつの仕事の重要性を理解することが難しい。また、仕事をするのに必要な情報が与えられない場合もある。そこにモラル・ハラスメントの入りこむ余地がある。
   (P163〜164「第7章・職場のタイプとモラル・ハラスメント」「官公庁および公企業」)

 次は医療機関である。医療機関ではことのほかモラル・ハラスメントが多い。(中略)
 たとえば、イギリス南東部の公立の医療機関で働く一千人の看護婦と看護士に対して行われた調査によると、そのうち三八%がモラル・ハラスメントを受けたことがあり、四二%が「同僚がひどい仕打ちを受けたのを見たことがある」と回答している。また、被害者のうち三分の二がモラル・ハラスメントに抗議したが、その抗議も空しく、モラル・ハラスメントは続いたという。
 いや、確かに医療の現場というのは体力的にも精神的にもきつい職場だろう。だが、患者のほうは、医師にしろ、看護婦にしろ、そのための訓練を受けていると思うからこそ、尊敬も抱き、また安心してその治療に身を任せているのである。その現場でモラル・ハラスメントが行われているというのは悲しいことである。
(P183「第7章 職場のタイプとモラル・ハラスメント」「医療機関」)

教育機関・研究機関・私企業(中小企業、家族経営の企業、大手の量販店、ベンチャー企業)・慈善団体・スポーツの世界・政治の世界

 以上が『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』にある「パワハラの起こりやすい職場・職種」についての記述である。ここからわかるのは、どの職場においてもパワハラのないことのほうがまれだということである。職場というのは、仕事をすることのきつさ、困難さを抱えている場だとは思う。そのきつさ、困難さがパワハラを生じさせているように思われる。また、公的機関や医療機関、慈善団体(NPOなど)においてもパワハラが横行していることがわかる。利他性を追求する社会的なこれらの職場において、パワハラはないと考えがちだが、その先入観は誤解である。あらゆる職場においてパワハラは生じているのである。

★パワハラの実相@そのプロセス
 ここからも、同書を引用しながら、それにそって私なりの解説を加えていくことになる。そのような形式を採用するのは、同書がパワハラ(モラハラ)行為をテーマにした、優れて名著になり得ていると思われるからである。
 同書の優れていることの一つは、職場にいる人間はパワハラの加害者にも、被害者にもなり得るということを指摘している点である。そのうえで、加害者と被害者に分けて論述している点が優れている。まずは加害者に焦点を当てて考えていくことにしよう。

 では、一般に、モラル・ハラスメントでは、どんなプロセスで暴力がふるわれ、被害者の精神が破壊されていくのか? それを簡単に説明すると、加害者はまずさまざまなモラル・ハラスメントの方法を使って、さらに攻撃をエスカレートさせて、ついには被害者を支配下におき、自分の言動に対して被害者が身を守れないようにする。それから、さらに攻撃をエスカレートさせて、ついには被害者を精神病や自殺に追い込んでいくのである。これは要するに、精神的な暴力をふるう加害者と被害者の間に、心理的な「支配と服従」の関係ができて、加害者はいつも被害者から反撃されることなく、攻撃を加えることができる、ということである。この関係はもちろん、職場における上下関係とはちがう。確かに職場における上下関係では、支配と服従の関係が成り立っている。だが、それはあくまでも職務上のことで、仕事を離れたら、上司と部下は人間として対等である。ということは、反対に、上司がこの関係を取りちがえて、部下のことを「人間として対等ではない」、あるいは「人間として尊重する必要はない」と考えたら、それは横暴な上司による職権濫用的なモラル・ハラスメントに結びつく――実際、人間というものは、権力の座につくと、自分が偉くなったような気がして、そういった行動をとりたがるものなのである。また、そこでただ権力をふるうために「嫌がらせ」をするのではなく、相手を傷つけ、追いつめるために権力が利用されたとしたら、それこそ本当のモラル・ハラスメントが始まることになる。(P292〜293「第12章 モラル・ハラスメントに関わる人々」)

 加害者と被害者の関係は、対等なものではない。それは「支配と服従」の関係であり、その関係を構築するために、加害者はあらゆる手段を使う。一般的には、仕事以外の場所では対等な関係であるわけだが、パワハラ行為としては、仕事以外の場所でも「支配と服従」の関係は継続される。すなわち、加害者は被害者を支配し、服従させるためにはあらゆる手段を使う、ということが引用文から読み取れる。それが、パワハラ行為の実相である。

★パワハラの実相A人格の攻撃
 モラル・ハラスメントが行われる時、被害者の「仕事」が標的にされることはめったにない(それは仕事の出来不出来とも関係がない)。相手を傷つけようと加害者が意識しているかどうかはともかく、「仕事」ではなく「人格」が攻撃されるのである。このため、たとえ加害者が複数だったとしても、攻撃は個人的な形をとる。
 この場合、加害者の目的は相手を支配することにある。したがって、まず何よりも相手の弱点を攻撃して、自信を失わせようとするのである。そういったことから、加害者は相手が容易に変えることのできない性格や習慣を非難する。また、仕事について何か言う時も、「これこれこうだから、きみの仕事はいけない」と具体的に指摘するのではなく、「おまえは駄目だ」と人格を攻撃する形で言う。そこには問題を解決しようとか、対立を調整しようといった意思はない。あるのは相手を力ずくでねじ伏せようという気持ちだけだ。そして、その目的は相手が服従したところで達成される。
(中略)
 モラル・ハラスメントの目的は相手を心理的に不安な状態に追いこんで、逆らうことができないようにすることである。そのためには、対等な関係ではなく、支配と服従の関係ができていることが望ましい。そうすれば、戦う前に相手は鎧(よろい)をはずしているからである。そういったことから――加害者は意識しているかどうかは別にして、純粋に仕事のことで相手を非難したりはしない。それよりも、相手が痛みを感じる個人的な事柄を攻撃するのである。
(P77〜78「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「仕事を批判するのではなく人格を攻撃する」)

(前略)モラル・ハラスメントとは当事者同士の「対立」ではない。加害者が被害者に加える「攻撃」である。すなわち、仕事の方針がちがうとか、感情的な行きちがいがあるということではなく、加害者のほうには「相手を傷つけよう」という意図がある、ということである。その目的は相手の心に侵入し、相手を支配して、思いどおりにすることである。この目的の点からすれば、同じ相手に対する攻撃でも、ただ単に「仕事上のストレスや労働条件が悪いことに対する苛立ちを人にぶつけて、欲求不満を解消する」ということではない。また、「かっとなって、思わずやってしまった」というのともちがう。そうではなく、相手を支配するために行うのだ。(P340「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「加害者になるのはどんな人々か」)

 この引用文で指摘されているように、加害者のパワハラ行為は対象者の弱点につけ込むものである。しかも対象者の傷つき方の大きい弱点につけ込むものである。そのため、仕事そのものの能力のなさにつけ込むよりも、対象者の人格の弱点につけ込むことが多い。職場での人々は完璧な人格を保持しているなどということはない。人格としては弱点を多く保持しているのが人間だ。加害者はそこにつけ込んで、対象者を傷つけようとするのである。
 同書によると、パワハラ行為は、加害者が被害者を支配し、服従させる目的で行われるという。この場合の「支配する」とは、被害者を傷つけ、被害者から正当な判断能力を奪い、自分の思い通りに被害者を捻じ曲げるということである。パワハラ行為は、多くの場合意識して、そうした恐ろしい目的を保持している。被害者を傷つけ、破壊し、支配し、服従させることを目的として、人格の弱点を攻撃するのである。

★パワハラの実相B加害者の悪意
 いっぽう、これまで数多くのモラル・ハラスメントの例を見た経験から言うと、モラル・ハラスメントの加害者は、個人的なレベルでは自分の行為や誤解や行きちがい、あるいは状況のせいにして、悪意を否認しようとする。
「そんなことを気にしていたなんて、知らなかったんだ」
「私は命令に従っただけだ」
「たいしたことはしていない。傷つくほうが神経過敏なんだ」
 このように、悪意の否認には巧妙な言いわけが用いられる。あるいは悪意そのものを意識していない場合もある。人は誰かを傷つけたことは認めても、自分の悪意を認めることは難しいからだ(なぜかと言うと、それは自己イメージが悪くなるという形で自分にはねかえってくるからである)。したがって、悪意の存在は、たとえば加害者が気づいたとしても、曖昧にされてしまう。「ほんの冗談だよ。気にするほうがおかしいんだ」
 いっぽう被害者のほうからすると、同じひどいことをされたのなら、加害者に悪意の存在を認めてほしいと思うのが普通である。悪意がはっきりしているなら、それに対して抗議をすることができるからだ。また、自分では暴力をふるわれていると思っているのに、「暴力をふるったつもりはない」と言われると、自分の感覚が信じられなくなるということもある。正常な感覚を取り戻すためには、悪意を認めてもらうしかないのである。
(P87〜88「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「悪意の否認」)

 ところで、モラル・ハラスメントとの関係で、この「自己愛的な変質者」の行為を考えると、この人々は自分のしたことを悪いと思っているのだろうか? さまざまな機会に本人たちに訊いてみると、本人たちは一様に否定する。彼らは絶対に自分たちの過ちを認めない。したがって、謝罪もしない。彼らが後悔するとしたら、「やり方がまずかった」と思った時だけである。実際、モラル・ハラスメントだとはっきりわかってしまったとしたら、それは巧みに隠しきれなかったからだ。すなわち、自分たちのやり方には、まだ改良の余地があるということである。(中略)
 いや、この人たち――「自己愛的な変質者」たちには、良心とかそういったものはない。ただ、「これ以上のことをすると、警察に捕まって、自分が不愉快な目にあう」という認識があるだけだ。もしそうなら、自分が悪いことをしたとは思うはずがない。しかし、それでも、この人々の心のなかには、心の深いところにひそんだ「根深い悪意」といったものがあるように思われる。といっても、もちろんこの人々が自分のなかのその悪意の存在に悩んで、精神科医の診療所を訪れるわけではない。この人たちは、自分たちの行動がまったく正常なものだと思っているからだ。だから、治療を受けにくるなんて、とんでもない。もし、この人たちが診察室にやってくるとしたら、それはどうやったら、もっと巧みに「変質性」を隠すことができるか、それを訊きにくるのである。
(P392〜393「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「純然たるモラル・ハラスメント」)

 パワハラの実相とは、加害者が悪意をもって精神的暴力をふるい、被害者を傷つけることにある。ところが、その悪意を判定・断定することが難しい。その要因の一つが、加害者が自分の悪意を否認する、認めようとしないことにある。ほとんどの場合、加害者は悪意を認めない。被害者の受け取り方が間違っている、被害者の認識が間違っているというスタンスを、加害者は取り続けるのである。
 被害者としては、加害者が悪意を認め、謝罪でもすることになれば、そのパワハラ行為から救済されることになる。傷ついた精神が救済されるはずである。しかし、ほとんどの加害者は悪意を否認し続ける。そのことがパワハラの解決を難しくしているのである。

★パワハラの実相C恐怖心
 恐怖はモラル・ハラスメントを行わせる大きな原動力のひとつである。というのも、人は恐怖を感じた時、相手に対して暴力的になるからだ。自分がやられる前に相手をやっつけてしまわなければならない。人は自分の身を守るために、相手を攻撃するのだ。この場合、恐怖は次の恐怖を生みだすといった形で、複雑に絡んでいく。誰もが加害者になると同時に、被害者にもなる可能性があるのだ。(P60「第1章職場におけるモラル・ハラスメント」「恐怖」)

 他人に恐怖を覚えると、まわりの人全員を警戒しなければならなくなる。他人に利用されないよう、弱点を隠す必要も出てくる。もし誰かを潜在的な敵で、危険なライバルだと考えるならば、やられる前にやってしまわなければならない・・・。前著で述べた「自己愛的な変質者」はとりわけ他人に対する恐怖が大きい。このような人々にとっては、自分に服従しない人、自分の魅力に屈しない人はそれだけで危険なのである。
 恐怖を抱くと、他人は悪魔のように思える。自分は弱く、脅かされていると感じるので、相手が攻撃的に見えるのだ。そういった気持ちから、実際には脅かされていないのに、相手に対してモラル・ハラスメントを行う場合がある。
(P63「第1章職場におけるモラル・ハラスメント」「恐怖」)

 加害者の動機、心理の一つに「恐怖」にかられるということがある。つまり職場の他者から排斥されるのではないか、迫害されるのではないか、自分が支配されるのではないか、という「恐怖」が加害者になってしまう要因になり得るのだ。他者から迫害される前に、自分が他者を迫害しようとするのである。そこに「恐怖」という心理が介在するのだ。
 また、加害者がまだ新人のころ、組織の上司や幹部からパワハラ行為を受けていた場合、自分が同じような立場になると部下に対してパワハラ行為をすることがある。そういう世代間の連鎖ということも、パワハラ行為に及ぶ要因・動機である。

★パワハラの実相D集団心理
 集団というのは、一体感が強ければ強いほど、全体のやり方に従わないと居心地が悪くなるものである。みんなと一緒でなければ、仲間はずれにされる。あるいは、モラル・ハラスメントを受ける。そう思うと、つい恐怖にとらわれて、ほかの人と同じように考えてしまう――というよりは、ほかの人はこう考えているだろう、というその考えに合わせて考えてしまう。その結果、アリストテレスが言うように、『どんな馬鹿げた意見であっても、もしそれが一般に広く認められているとわかったら、人は簡単に受けいれてしまう』(『二コマコス倫理学』より)、そういった状態ができあがってしまうのである。
 これをまた別の角度から見ると、「集団というものは、ひとりのリーダーを前に立てて、あとの人々はちょうど羊の群れのように、そのリーダーのすることに無批判に従う側面がある」、ということでもある。ショーペンハウアーが言うように、『全員に共通する意見というのは、よく調べてみると、二人か三人の意見であることが多い』のだ。このような形で、盲目的に誰かの言うことに従ってしまう傾向は、上層部から中間管理職、ひらの社員にいたるまで、企業組織のあらゆるレベルで見ることができる。いや、企業の経営者も、羊の群れの一員になるという誘惑から逃れられない――その結果、経営に対する判断を自ら下さないで、専門家やコンサルタントの意見にそのまま従ってしまうということが起り得るのである。
(P377〜378「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「モラル・ハラスメントをする集団に従ってしまう人々」)

 ここで言う「変質の伝達者」とは、いくらおかしなものであっても、上層部の意志をそのまま実行に移そうとして、人を傷つけてしまう人々のことである。たとえば、会社のある部署が上層部から実現困難な目標を与えられた時、その部署の人々は、その目標を達成するために、自分たちのなかで成績の悪い人たちを排除することがあり得る。命令を実行するためであれば、同僚を傷つけることなどなんとも思わなくなってしまうのだ。
 もしそうなら、ある社員を辞めさせようと思った場合も、会社の上層部はその社員が会社にとって望ましくない存在だということを同僚の社員たちに知らせてやればよい。そうすると、同僚の社員たちは、権威に対する恐怖や服従の心理から、その社員を仲間はずれにして、孤立させる――すなわち、これまでさんざん述べてきたやり方で、モラル・ハラスメントを行う。その結果、その社員はいわば同僚たちから追いだされる形で、会社を辞めていくことになるのである。
 ある組織のなかで、自分が信頼を置いている「権威」から命令を受けた時、人はその命令を実行することに関しては責任を感じて、自ら進んでその行為をなしとげる。だが、その行為を行うこと、あるいは、その行為の結果については、まったく責任を感じない。自分はただ、「命令されたからやった」と考えるのである。
(P378〜379「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「変質の伝達者」)

 職場においては、誰でも被害者になる可能性がある。その一方で、加害者になる可能性も誰もが持っている。そうした可能性を肯定しなければ、パワハラを理解することも、パワハラを回避することもできない。
 パワハラ行為は、職場という集団の中でなされる。つまり「集団心理」が働くのである。最初は上司のパワハラ行為であっても、集団の中でそのパワハラ行為が加速されることがある。この場合のパワハラ行為は、集団によるいじめとして展開してしまう。発端は上司一人の行為であっても、それが集団の中で、悪い意味で伝播してしまうのである。パワハラ行為について考える場合、そういう集団心理を無視することはできない。

★パワハラの実相E変質者である加害者
 モラル・ハラスメントの特徴は、攻撃が執拗に繰り返されることである。その攻撃の仕方は、態度によるもの、言葉によるもの、行動によるものとさまざまで、そのひとつひとつを取ってみれば、たいしたことではないと見えることが多い。しかし、それが互いに関連した形で何度も繰り返されることによって、破壊的な力を持つことになるのだ。(P43「第1章モラル・ハラスメントでないもの」「一時的な攻撃」)

「自己愛的な変質者」とは、自己愛的な性格が「変質的な」段階まで高まってしまった人間である。この性格の人々は、相手を警戒し、「相手を操って支配する」という形でしか人間関係をつくれない。相手を人間として認め、お互いの個性のちがいから自分を豊かにしようとは、夢にも思わない人間なのだ。「自己愛的な変質者」にとって、他人とはまず何よりも、打ち負かさなければならない相手なのである。したがって、この人々は、自分の力が脅かされないように、相手を支配するか、そうでなければ破壊するしかないと考える。そこで、まずは相手の弱みを見つけ、それを暴きたてて攻撃することによって、自分の優位を保とうとするのである。また、この時、その相手というのは、「自己愛的な変質者」の心のなかでは、すべてに責任のある悪い人間――すなわち、破壊されなければならない人間になっている。だからこそ、執拗に攻撃を繰り返すのだが、この過程で「自己愛的な変質者」たちが、相手のアイデンティティが崩壊していくのを見て喜んでいるのはまちがいない。(P388「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「純然たるモラル・ハラスメント」)

「自己愛的な変質者」のすることは、ひとつの「病気」の段階に達している。にもかかわらず、この「変質性」は精神病ではない――したがって、これを治療することによって、モラル・ハラスメントがなくなるわけでもない。私たちのなかには、誰のなかにも「変質性」の芽があって、モラルに関する教育を十分に受けてこなかったり、仕事をしたり、社会生活を送っていくうえで、モラルなんか気にかけていられないという状態になれば、その「変質性」の芽は大きく育ってしまうものなのだ。そういった意味で、「自己愛的な変質者」の生い立ちについて考えてみると、この性格の人々は、幼い時に受けた心の傷が原因で、性格が歪んでしまった人々であると言える。幼い頃、自分が教わった不健全な人間関係を大人になってから再現しているか、あるいは、自分が受けた精神的な暴力を、今度は加害者となって自分が繰り返しているか、そのどちらかなのだ。(P391「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「純然たるモラル・ハラスメント」)

 ここで引用してきた『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』の著者は、パワハラ行為を行う人物のパーソナリティを「自己愛的な変質者」であると断言している。その人物は精神病とは言えなくても、自己愛的なパーソナリティ障害を抱えていると断言している。
 私は精神医学者ではないから、そうした変質的人格をこのように断言することはできないが、私もまた、そこに精神的障害を感じることはできる。私の用語で言えば、この場合の「自己愛的な変質者」とは、「利己的なパーソナリティ」であり、他者のことを思いやることのできない「エゴイスト」ということになる。そんな変質的人格障害を持つ人間が、加害者になりやすいのである。

★加害者の台頭
 さて、現在のように仕事の世界で生き残る条件がだんだん厳しくなってくると、ことの善悪はともかく、企業のなかではある種の選別のシステムが働いて、「自己愛的な変質者」が組織の重要なポストに就くようになる。というのも、この人たちは冷たく、計算高く、情けというものを知らないので、人間的な感情のしがらみにはとらわれずに、合理的な選択を行うことができるからである。したがって、ある意味からすれば、企業でも官公庁でも、まっすぐにトップを目指せる人々なのだ。いや、これは単に能力だけの問題ではない。この人たちが社内で重要なポストに就けるのは、人を惹きつけ、支配することを知っているからである。たとえば、上下関係を使って部下を巧みに利用し、そこから得た利益を全部自分のものにする――そういったことに長けているからだ。「権力」というものが存在する、ほかのあらゆるところと同じように、企業というところは「自己愛的な変質者」を引き寄せる。そして、また、彼らのために広く場所をあけて待っている。だが、「自己愛的な変質者」たちが危険であるのは、「変質的な」行為を行うという理由からだけではない。まわりにいる人々を自分に惹きつけ、集団全体を「変質的な」ものへと導く力を持っているからである。(P393「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「純然たるモラル・ハラスメント」)

 私が思うに職場では、がむしゃらに声を大にして自己主張をする人間のほうが、上位の権力者になりやすいようだ。控えめな人間は不利である。このことは、私の価値観で言えば困ったことだ。しかし、そういう傾向があることを否定できない。
 この引用文では、単に自己主張の強い人物とは言わずに、それをさらに延長して、「自己愛的な変質者」のほうが、上位の権力者になりやすいと指摘している。つまり、パワハラ行為の加害者になるような人間のほうが、上位の権力者になりやすいと言うのだ。上位の権力を持つ人間に対して、私にはそこまで断言できないのだが、皆さんはどのようにお考えだろうか。

★どんな人が被害者になりやすいか
 ここまで、パワハラ行為の加害者について考えてきた。加害者の立場で考えてみることは、その解決の一助になるものと思われる。この節からは、被害者の立場から考えていくことにする。

 個性的な社員(P299)
 能力があったり、目立ったりする社員(P300)
 会社のやり方に従わない社員(P302)
 社内で孤立したり、人間関係のネットワークを持たない人々(P304)
 成績の悪い社員(P307)
 一時的に仕事をする能力が落ちている社員
(P308)

 これは引用している本書の小見出しである。こうした人々が職場でパワハラを受けやすいとされている。ここに六つの小見出しがあるが、これを見て、こうした社員にならないように、被害者にならないように注意し、回避することができるのだろうか。私が思うに、確かにこうした傾向を持つ人がパワハラの被害者になりやすいとしても、それは結果論に過ぎない。むしろ、パワハラの被害者にはどのような社員もなり得るのである。あえて言えば、それは偶然の選択であり、どのような社員でも被害者になる可能性をもっているのである。それが私の本書を読んでの感想である。

 モラル・ハラスメントは、自分とは異質なものに対する拒否感が原因となって行われることが多い。この拒否感は、性別とか、肌の色とか、ちがいがはっきりしたものに向けられることもあるが(この場合は差別に近くなる)、それよりは、ある人の個性など、もっと微妙なものに向けられることが多い。(P299「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「こんな社員は標的にされやすい」)
 
★被害者の特性@過敏な性格
 偶然に基づいて被害者になると述べたが、その被害者は、他者と異質な面があり、それがきっかけになって被害を受けるということはあり得る。被害者の異質性がパワハラ行為を誘発するのである。また、結果論に過ぎないと私は考えるというものの、被害を受けやすい性格、被害を受けやすい人の性格、仕事への姿勢が、一応、本書で指摘されている。ここからはその概観を見ていくことにしよう。

 内気で控えめ、対人関係に過敏な性格(いわゆる敏感性格)の場合も、モラル・ハラスメントにあいやすい。
 敏感性格とはドイツの精神医学者、クレッチマーの命名によるものだが、このタイプの性格の人々は、良心の葛藤に悩みやすく、他人の反応を気にしやすい。また、社会や人との接触に過敏な反応を示し、生命を脅かされる不安を感じやすい。そうして、自分自身に対してはかなり悪いイメージを持っている・・・。と、並べてみると、かなり弱点の多い性格であるが、これはもちろん精神病ではない。あくまでも性格である(そのことはきちんと言っておきたい)。
 そのほかにも、この性格の特徴をいくつか言うと、論理に欠けることを許さない。いい加減なことを嫌う(特に対人関係でいい加減なことができない)。何ごともおろそかにできない。噂や人の評判が気になる、といったことが挙げられる。
 また、普通の人よりも屈辱感を持ちやすく、人から攻撃を受けると、その出来事を気に病むあまり、苦痛のあまりうつ病や抑うつ神経症になったり、場合によっては妄想を抱くこともある。
 といったことから、この性格の人々はモラル・ハラスメントにあいやすいだけでなく、モラル・ハラスメントに対して過敏に反応する。実際、モラル・ハラスメントを受けると、敏感性格の人々は、代償機能が破綻し、精神病に追い込まれることも多い。
(P323〜324「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「敏感性格の場合」)

 被害を受けやすい性格の第一は、「敏感性格」である。対人関係に過敏な性格というのは、対人関係において配慮ができ、優しく接することができるという面がある。一般的には優れた性格として評価されるものだろう。しかし、パワハラ被害を受けるという意味では、そうした優れた性格が危険である。思いやりが裏目に出るのが、パワハラ被害なのである。職場のパワハラ被害に限って言えば、このように言えると同書で指摘している。

★被害者の特性A不器用な性格
 モラル・ハラスメントから身を守れない社員というのは不器用な人間が多い。自分の気持ちに正直すぎて、うまく立ちまわることができない――ある人たちが言うには、いまの社会に適応できない人々である。いや、それも当然だろう。現代の社会とは、政治家や大企業の経営者たちが平気で嘘をつき、またその嘘が大目に見られるような――要するに、「世渡り上手」になることがすべての価値に優先するような社会である。そういった社会では、正直すぎる人間がうまく適応できるわけがない。だが、はたして、嘘をつくのを拒否したり、批判精神を失わないことを「適応能力が不足している」と考えてもよいものだろうか? それよりも、集団のやり方が好ましくないと思った時に、それに盲目的に従わず、反対する人々がいたら、むしろ「安心できること」だとは思わないだろうか? 自分の価値観をしっかり身につけている人は、自分の意見をはっきり言うことが多く、それだけにまわりの人たちとも衝突しやすい。そうなったら、「異常だ」とか「変わっている」とも見られるだろう。だが、そんな言葉で片づけてしまってよいのだろうか?(P323「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「仕事を大切にし、神聖化している場合」)

 ここでは被害を受けやすい性格として「不器用な性格」があげられている。ここで言われる「不器用さ」とは、「集団の中でうまく要領よく立ち回れない」ということだ。世渡りが不得手な性格である。「社会に適応できない人」とのことだろうが、私が思うに、「器用な人」「世渡り上手な人」よりも正しい価値観、批判精神を持ったのではないだろうか。このことも、一般的には評価できる性格であるのに、被害を受けやすい性格として指摘されている。

★被害者の特性B自己評価の低い人
 自己評価の低い人は、とりわけ他人の評価に敏感である。したがって、加害者から見て、相手の自己評価が低いとわかっている場合、相手が清廉潔白な人であったり、真面目に働いている人であれば、相手の仕事ぶりを疑うようなことを言えば、それだけで相手を傷つけ、大きなショックを与えることができる。(P312〜313「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「自己評価が低い場合」)

 仕事というのはアイデンティティと密接に結びついていることが多い。仕事に関係することで褒められ、評価され、好感を持たれれば、自己イメージはよくなる。反対に、批判され、貶(おとし)められれば、自分とは何か疑うようになる。
(中略)実際、最初に言ったように仕事とアイデンティティが密接に結びついている場合――というより、過度に結びついている場合は、仕事の批判を仕事だけの問題として考えることができない。(中略)仕事とアイデンティティが切り離せなくなっているので、仕事の批判をされただけで、全人格的に傷ついてしまうのである。
(P313〜314「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「アイデンティティが仕事と過度に結びついている場合」)

 モラル・ハラスメントはほんの小さなことから始まるが、職場の人々の間の価値観のちがいがそのきっかけとなることも多い。たとえば、倫理的に潔癖で、職場で行われる「公私混同」を許せない人がいた場合、そういった人はモラル・ハラスメントの標的にされやすくなる。(P320「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「生真面目で正直すぎる場合」)

 自分の仕事を大切にし、神聖化している人の場合も、モラル・ハラスメントを受けやすい。こういった人々は、仕事には特別な価値があると思っているので、つい融通がきかなくなるからである。(P321「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「仕事を大切にし、神聖化している場合」)

 私たちは、仕事を特別な行為として捉えがちである。というのも、仕事によって金銭を稼ぎ、生活を成立しているわけだから、当然の認識かもしれない。とかく仕事に対する認識、姿勢として、特別感を持ちやすい。ところがこうした考え方が、被害を受けやすくしているのだ。また、詳しく後述するが、仕事についての自己評価が低い、ある意味では謙虚な性格というのも、被害を大きくする傾向があるようだ。

★被害の実相@主観の問題
 モラル・ハラスメントを人間と人間の問題として見る時、この問題をいっそう複雑にし、解決を困難にしていることがある。それはまわりの人間や仲介者から見た「真実」が、加害者や被害者の気持ちからすれば「真実」ではないということである。すなわち、起こった出来事をどう感じるかは、それぞれの主観の問題なのである。その結果、現実にはそれほどたいしたことのようには見えないのに、被害者が侮辱だと受け取って、深く傷つくということはあり得る。ある事実をその人が受け取って、どう感じるかは、その人が受けた教育や育った環境、過去に経験した出来事やそこで受けた心の傷などによってちがってくるからだ。個人の人格というのは、単に性格だけではなく、その人の生きてきた歴史と結びついている。そして、そういったものが一体となった形で、ある出来事に対する反応が決まってくるのである。(P293「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「モラル・ハラスメントをどう受け止めるかは人によってちがう」)

 パワハラ被害について考える場合、その被害が主観的なものだ、とのことを十分に考えておきたい。同じ職場の人間や、第三者にはなかなか見えないのに、当人は主観的に大きな被害意識を持っていることも珍しくない。第三者から見て何事もないようなパワハラ行為が、被害者にとっては大きな痛手となることもある。本人以外に見えないというのは、加害者の狙いでもある。被害者の被害意識は主観的に認識されるので、個人差があるとも言える。そのことが解決を一層、難しくしている。

★被害の実相A嫌がらせの継続
 しかし、どのような定義であろうと、モラル・ハラスメントが一見したところでは気がつかないほど小さな攻撃でありながら、被害者の心身に破壊的な力を持っているものであるという点に変わりはない。相手に対する嫌がらせの行為は、そのひとつひとつをとってみれば、それほど深刻なものだとは思われない。だが、それが繰り返し、頻繁に行われることによって、受けるほうからすると小さな痛手が累積し、自殺や精神病に追いこまれるほどの大きな傷となるのだ。最初はちょっと失礼な態度をとられたくらいにしか思われない。ところが、そんなことが続けられていくうちに、最後にはどんな人でも精神のバランスを失ってしまうのである。(P27「モラル・ハラスメントを定義する」)

 一度だけのささいな嫌がらせだけならば、被害者は傷つくことは少ない。しかし、それが何度も繰り返されると、その都度、傷つき方は増量してくる。しかも多くの場合、加害者は多くの場合、より大きい嫌がらせをするようになる。その場合、最初は「失礼だな」くらいの思いだったものが、繰り返されるたびにより大きな嫌がらせに感じる。そして被害者は、最終的には精神のバランスを失うくらいに傷つくのでる。これが悪意ある嫌がらせとしての被害の実相である。

★被害の実相B責任転嫁
 モラル・ハラスメントの場合、嫌がらせというのは、たいてい偶然起こったような形をとる。そうして、それが毎日、形を変えて行われるのだ。したがって、少しでも事態を把握しようと思うと、標的になった人物ははてしない自問自答を繰り返すことになる。時には同僚に忠告を求めてみることもあるが、満足な答えは返ってこない。同僚たちは加害者から切り離されているのが普通だからである。また、加害者に言われた「悪いところ」を直したとしても、攻撃がやむわけではない。モラル・ハラスメントは、被害者が加害者の前からいなくなるまで続くのだ。加害者のほうは――個人であっても、組織であっても――嫌がらせをしたことを認めない。「何も起こってはいない。あの人が作り話をしているだけだ」。あるいは、責任を被害者に押しつける。「確かに仲間うちから遠ざけたけれど、それはあの人が難しい(おかしい、ヒステリックな)性格をしているからだ」。このように加害者は、たとえ自分がしたことは認めたとしても、その非は認めようとしないのである。これでは論理も何もあったものではない。モラル・ハラスメントの加害者に対してはまともな論理が通用しないのだ。その結果、事態を論理的に把握できないことによって、被害者は自分の精神がおかしくなったのではないかと疑うようになる。そのいっぽうで、加害者のほうは被害者に対して、「おまえは狂っている」と言う。被害者はほかに仲間はずれにされる理由が見つからないので、それを信じるようになる・・・。実を言うと、人を狂気にいたらせようと思ったら、これは非常に簡単で、しかも有効な方法なのである。(P82〜83「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「正常な感覚を失わせる」)

 被害者は、加害者が悪意に満ちたその行為を認め、謝罪するまで、自問自答することになる。パワハラ行為を受け、自分が間違っているのではないか、自分がおかしいのではないか、と考え始めるのである。そのうえ、加害者は自分の悪意あるパワハラ行為を認めようとしない。そのことがさらに被害者を追い込み、時には狂気に至らしめることさえある。

★被害の実相C話し言葉の二重の意味
 モラル・ハラスメントに特有の症状は、「正常な感覚が失われる」ということである。それはどうやったら相手を傷つけることができるか、というモラル・ハラスメントの方法と密接に結びついている。
 たとえば、その方法のひとつとして、「表面的な意味のほかに、裏に別の意味がこめられた言葉を使う」というのがあるが、そういったことをされると、私たちはその言葉をどう受け取っていいかわからず、途方に暮れてしまう。また、そんなことが続けば、精神的におかしくなってくる。実際、こういった二重の意味を持つ言葉が使われると、家庭の場合、言われたほうは統合失調症(精神分裂病)に追いこまれる可能性がある。また、職場においては、妄想症的な傾向が表れたり、ひどい場合には精神を破壊されてしまうこともある。いや、そこまでいかなくても、職場で使われている言葉をすなおに受け取ることができなくなれば、働く人間にとっては大問題である。何が本当で何がまちがっているのかわからなくなり、仕事をするうえでも、大切なこととそうでないことの見分けがつかなくなってしまうからだ。また、なんでもない言葉の裏に非難の意味がこめられていると思えば、正面切って言い返すこともできず、自分は本当に駄目な人間なのだ、と疑う気持ちも出てくる――要するに、自分で自分の感覚が信じられなくなってしまうのだ。そうなったら、今度は加害者のほうからすれば、責任をなすりつけるのも、相手を無能呼ばわりするのも簡単である。
(P233〜234「第10章 モラル・ハラスメントに特有の症状」「自分の感覚が信じられなくなる」)

 この引用文を皆さんはどのように読まれるだろうか。職場内おいてのパワハラ行為は集団的ないじめに発展することがあるが、その集団に所属する社員が、往々にして使う方法が、この引用文に書かれているのだ。
 その方法とは「表面的な意味のほかに、裏に別の意味がこめられた言葉を使う」というものである。もっと具体的に言うと、「四」という数字を多用し、暗にそれに、「し(死)」を意味させ、被害者を追い詰めるという方法である。ほかの言葉でも二重の意味をこめることは、悪意を持てば容易なことである。それによって、「自分の感覚が信じられなくなる」といった精神病の領域に至ることがあり得るのである。
 私はこうした方法があるということを当初、認識できなかった。そんないじめ、パワハラ行為の方法があることを認識できなかった。しかしこの引用文を読むと、二重の意味を込めるパワハラ行為(いじめ行為)があることが理解できるのである。私自身のこれまでの経験からも、そんな方法があり得ると考えられる。
 そして「あり得る」という認識をすることが、被害を最小限にすることにつながると考えたい。そんな考えに至らす引用文である。

★被害の実相D悪意による傷つき
 被害者が相手の悪意に気づいた時――すなわち、屈辱的なやり方でコミュニケーションを拒否されたり、仕事に関して意地の悪い批判をされたり、態度や言葉で明らかな侮蔑を受けたと感じた時――被害者の苦しみはモラル・ハラスメントの段階に進む。その結果、被害者の精神に与える影響は、ストレスの段階に比べてはるかに大きくなる。被害者はまず、そういった悪意が存在することが信じられない。それから、「こんなふうにひどい扱いを受けるなんて、自分はいったいどんな悪いことをしたのだろう?」と不安にとらわれる。そうして、この状況を変えようと、果てしない努力を重ねるのだ。そこで生じる心の傷はストレスなどとは比べものにならないほど深く、大きい。というのも、それは自尊心や人間としての誇りが傷つけられてできたものだからである。また、上司や同僚、あるいは会社に対して抱いてきた信頼感が突然崩れさったことも、その傷を深く、大きくする一因となっている。この時、被害者が自分の人生のなかで仕事を重要な事柄として考えていればいるほど、その「心の傷」は大きくなる。(P30〜31「第1章 モラル・ハラスメントではないもの」「モラル・ハラスメントの段階」)

 心理的な攻撃について考える時、「悪意」の問題を切り離して考えるわけにはいかない。というのも、その攻撃に悪意があれば、被害者が受ける心の痛手はいっそう深くなるからである。被害者が傷つくのは、相手の「悪意」に対してなのである。「あの人は私を傷つけようとしている!」そのことに傷つくのだ。(P87「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「悪意があるということ」)

 この引用文で強調されているのは、被害者は当初、その悪意が信じられないということである。そもそも、正直で良識を持った人は、他者に対して悪意を持っているということが信じられない。信じられないのに、一方で悪意を感じるのである。また、そういう悪意を持って対応されることは、自分が悪いのではないか、と考え込んでしまう。そんなことはないのだが、自分が信じられなくなるのである。
 被害者は、加害者の悪意に傷つく。「あの人は私を傷つけようとしている!」。その悪意を発する人が信じられずに、その悪意に傷つくのである

★被害の実相E人間性の破壊
 モラル・ハラスメントを受けると、被害者は慢性的な抑うつ状態に陥り、自分を傷つけたその出来事のことばかり、考えることがある。まるでもうその出来事に完全に支配されてしまったかのように、起こったことを繰り返し思い出し、「ああすればよかった」、「こうすればよかった」と思い悩むのだ。そうなると、目の前の人生を楽しむとか、これからの人生を計画するなどということは考えられない。まるで時が止まってしまったかのように、過去から一歩も抜けだせなくなるのだ。時には、この状態が一生続くこともある。モラル・ハラスメントが「精神的な殺人」であるというのは、まさにこのことである。(P236「第10章 モラル・ハラスメントに特有の症状」「精神的に破壊される」)

 モラル・ハラスメントが続くようだと、被害者はかなりひどいうつ状態に陥ることになる。すなわち憂うつで悲しい気分になり、自分がなんの価値もない、社会に適合できない人間だと思えてくる。また、まわりで起こったことはすべて自分がいけないせいだと思い、何をする気もしなくなる。そうして、それまでは興味のあったことにさえ、関心を失ってしまうのだ。(中略)
 それはともかく、モラル・ハラスメントの結果、これほどの割合で被害者がうつ状態に陥ってしまうというのは、決して軽視することができない。というのも、さきほども言ったように、この状態になると、被害者が自殺する可能性が高まるからである。
(P213「第8章一般的に見られる症状」「迎うつ状態」)

 モラル・ハラスメントの過程が進むと、被害者の身体にはかなり高い確率で心身症の症状が表れる。というのも、攻撃を受けても、心のほうはまだ何が起こったか理解できず、真実を見るのを拒否しているのに、身体のほうはすでにその攻撃に反応しているためである(それが頭痛や下痢など、身体の不調となって表れる)。ついでに言っておくと、こういった身体の反応は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)として、モラル・ハラスメントを受けたずっと後になって表れることもある。(P215「第8章一般的に見られる症状」「心身症」)

 モラル・ハラスメントを受けると、性格が用心ぶかくなる。その傾向がさらに強まれば、妄想症的な傾向が表れることもある。さて、精神医学的に言うと、正常に警戒心が強いといった状態から妄想症に移行するのは、それほど珍しいことではない。その境界は曖昧で、専門家も時には判断に迷うくらいである。(P237〜238「第10章 モラル・ハラスメントに特有の症状」「妄想症的な傾向が表れる」)

 マギの症状を見ると、これは明らかに幻聴や妄想をともなう精神障害、すなわち慢性幻覚精神病と呼ばれる本物の精神病である。だが、それは職場の状況とは関係がなかったのか? いや、もちろん関係があっただろう。幻聴が起こったのも、職場で近くの席にいる人々が部長のスパイだという妄想を抱いたのも、職場の雰囲気が影響していることはまちがいない。マギにとって、職場は安心していることのできない危険な場所だったのである。確かに、この部長にどこまで悪意があったかはわからない。また、マギのほうもその悪意を誇張して感じている。だが、マギが不安になる状況は、確実に存在したのだ。(P242「第10章 モラル・ハラスメントに特有の症状」「一時的に精神病の様態を示す」)

 被害者はパワハラ行為を受けると考え込んでしまう。その考えは冷静な思考ではなく、強迫観念に近いものだ。自問自答し、考えずにはいられなくなってしまうのである。そして、時にはうつ病になったり、心身症になったり、さらには本物の精神病になってしまう。用心深く、警戒心に満ちた性格に変質し、最終的には精神病になってしまうのである。人間性が破壊されるのである。
 精神疾患は、資質などの個人的理由によると考えられている。それも一面の真理であるが、パワハラ被害を受けたという職場の関係性によって至ることがあるのだ。職場から退職する場合に、うつ病やその他の精神疾患を理由にする人は多いが、その中の少なくない人がパワハラ行為の被害者であると考えられる。

★被害からの脱出@第三者の支援
 では、ここで被害者の立場にたって、「私はモラル・ハラスメントを受けている」と思ったら、いったいその時はどうすればよいのだろう? そこで、まず第一に言えることは、モラル・ハラスメントの状況からは、ひとりでは抜け出せない、ということである。したがって、自分が被害を受けていると感じたら、ともかく誰か専門家に相談しなければならない。というのも、もしそういったことをしないのであれば、あとは直接、法に訴えるしか方法がなくなるからである。
 しかし、そうは言っても、どんな専門家に相談するのか、これを決めるのがまた難しい。医師か、弁護士か、労働組合か・・・。その人が受けている被害の状況によって、誰に相談をすればいいのかも、また変わってくるからである。だが、いずれにしろ、その人の状況にふさわしい専門家が見つかれば、その専門家は、話を聞き、一緒に状況を分析し、はたしてそれがモラル・ハラスメントであるのかどうか、またどんな種類のモラル・ハラスメントであるのか、そういった判断を下してくれるだろう。
(P396〜397「第5部 モラル・ハラスメントにどう対処すればよいか」)

 この章の前半にも書いたことだが、パワハラ行為の被害から逃れるためには、第三者としての専門家に相談することが大切である。自分一人で解決することはまずできない、と考えるべきである。では、どのような専門家に相談したらよいのだろうか。それがまた難しいと引用文には書かれている。ただ、自分一人で考え込み、落ち込んでいるだけで解決できるということはあり得ない。だから、勇気を出して、良い相談相手と見られる専門家に相談することが大切である。それが解決の第一歩だと考えるべきである。

★被害からの脱出A加害者と離れる
 通常のストレスとちがうのは、モラル・ハラスメントの場合は、無力感や屈辱感、そして「これは正常なことではない」という違和感がつきまとうことである。また、この段階で、モラル・ハラスメントの加害者と接することがなくなれば、症状はまたたくまに改善される(これはめったにないことだが、加害者が謝罪した場合も同様である)。被害者は精神の安定を取り戻し、その後、長期に及ぶ健康の被害も出ない。(P212「第8章一般的に見られる症状」「ストレスによる機能障害」)

 加害者から離れることは、被害からの脱出として有効である。比較的大きな企業の場合、配置転換してもらうように会社に申し出ることが必要だろう。企業としては、その配置転換を認める器量の大きさも必要なのだ。配置転換ができない小さな会社の場合でも、直接の上司を代えるなど、加害者と被害者とを離すことが、被害からの脱出として有効である。
 また、被害者は退職することによって被害から逃れることができる、という認識も大切である。退職することは生活の糧を得られなくなるということで、そうは簡単に決断できることではない。しかし退職すれば、元のような平穏な生活に戻れるという認識を持つだけでも、精神的負担は軽くなるようだ。いずれにしても加害者から離れれば、解決できるのである。
 会社としては、「パワハラ」が職場であり得るということ、そのことを十分に認識し、被害者と加害者を離す方策を考えたいものである。

★被害からの脱出B社員間の連携
 モラル・ハラスメントが横暴な上司による職権濫用的なものだったり、また、会社側がコスト・キラーを導入して、過剰人員を整理する過程で起こったものであれば、その場合は、実際的な対処の方法としては、社員たちが結束するしかない。すなわち、経営者や上司の「変質的な」、あるいは「病的な」やり方に対して、団結して戦うしかないのである。しかし、それは逆に言えば、集団で行動して、労働監督局に訴えるなり、労働組合を動かすなりすれば、そういったタイプのモラル・ハラスメントには対抗する道が開けている、ということである。
 いっぽう、モラル・ハラスメントの種類がいわゆる「純然たるモラル・ハラスメント」であった場合は、被害者は孤立させられていることが多いので、ほかの社員と連帯して行動を起こすことができない。その結果、モラル・ハラスメントに対する対処の方法も変わってくる。最初に述べたような形で専門家に相談する必要が出てくるのは、この場合である。
(P397「第5部 モラル・ハラスメントにどう対処すればよいか」)

 加害者は、被害者が会社の中で孤立していることを利用する。そのため、社員同士が団結して、連携しているとパワハラ行為は起こりづらくなる。また、解決するためにも、社員間で団結し、連携することが有効である。
 しかし、こうした団結・連携はそう簡単にできることではない。連携相手になる社員にとってみれば、自分にパワハラ行為が降りかかる可能性があるからである。また、そもそも、団結・連携が強くないという職場にパワハラ行為が横行しやすいということも関係している。そうした団結・連携が難しいところに、解決が困難な一つの原因があると見られる。

★被害からの脱出C自己否定しない
 ここまでの記述を読めばご理解いただけると思うが、パワハラ被害からの脱出方法として、私には特に強調したいことがある。それは「自己否定しない」「自罰的にならない」「反省したりしない」ということである。パワハラ行為を受け、精神的にこじらせてしまうのは、こうした「自分が悪いからパワハラを受けるのだ」という一種の自己否定である。被害者は、「悪いのは自分だ」「自分は悪い人間だ」といった自己否定に走りやすい。そういう認識は、被害からの脱出を難しいものにすると思うのだ。
 もちろん一般的に、自己否定をしたり、反省したりすることが悪いことではない。むしろ、職場以外の社会においては、それは謙虚な姿勢で評価されても良いはずのものだ。また、自分の成長のためには、反省し、ときには自己否定することも必要かもしれない。
 しかし被害から脱出するために限って言えば、こうした心情は排除したほうが良い。それが、この引用文を読んできた私自身の率直な思いである。パワハラの被害に合っていると思ったら、「加害者が悪い行為をしている」「加害者が間違っている」「加害者が変質的だ」という「他罰的」な認識を持つべきだ。実際、加害者はやってはいけない行為をしているのであり、悪いのは加害者のほうなのだ。

★パワハラ解決の二つの視点
 モラル・ハラスメントの原因がひとつしかなければ、私たちの苦労はこれほど大きくならなくてもすむ。原因がひとつだけなら、対策もまたひとつですむからである。だが、これまで行われたさまざまな研究を見れば、原因はひとつではなく、二つの重大な要素が絡んでいることがわかる。その二つとは、個人の性格や過去の体験の影響など「心理的な要素」、そして職場の管理方式など、「システムに関係する要素」である。したがって、モラル・ハラスメントが起こった時に、被害者や加害者の性格的な問題だけに焦点をしぼって議論を進めてはいけない。(中略)この問題は「システム」と「個人」の二つの要素が合わさったものとして考えていかなければならないのである。(P248「第4部 システムと個人――モラル・ハラスメントの二大要素」)

 「システム」と「個人」は別個の要素としても考える必要がある。いや、確かに、モラル・ハラスメントが「変質的なシステム」の土壌のうえに成り立っていることはまちがいない。しかし、「システム」を考えることが「個人」を考えることの妨げにはならない。「システム」と「個人」を同一視してはならないのである。たとえば、いくら企業が社員をチェスの駒のように扱おうとしても、人間は駒になりきれるものではない。受けた教育や生まれ育った社会的背景、そして過去の個人的な体験などが合わさって、「生身の人間」のままでいるのだ。もしそうなら、それぞれの人の体験や物の考え方によって、モラル・ハラスメントというのは、その持つ意味がちがってくる。その人がどんな過去を持ち、どんな家族を持っているのか、どんな交友関係があり、社会や会社とどう関わっているか、はてはどんな経済体制のもとに暮らしているか、そういったことによって、たとえ同じ状況であっても、それをモラル・ハラスメントと言うかどうかは変わってくるのである。(P249「第4部システムと個人――モラル・ハラスメントの二大要素」)

 職場におけるパワハラ問題は、個人の心理的要素と管理などの職場のシステム(個人から見れば環境)が絡み合って発生する。そのため、パワハラを個人だけの責任に帰着することはできない。また同時に、職場のシステムにだけに問題を帰着させることはできない。
 そのため、この引用文では、両方の視点からこの問題を捉えることが重要だとされている。どちらかに偏るのではなく、複合したものとしてとらえるのである。私もこれに準じ、両者をそれぞれに考え、さらに複合させ、これからも考えていきたいと思う。

★この章を終わるにあたって
 たとえば、職場でモラル・ハラスメントが行われた時、まわりの人々はどうしてそれを見て見ぬふりをするのか? これは社会的な背景を考えなければ理解できない問題である。そういったことを真剣に分析することもなく、その結果として、ただモラル・ハラスメントの被害者を衰弱させ、精神病に追いやってしまうのであれば、私たちは社会的に重要な問題を棚上げすることになる。(P18「はじめに」)

 この章は、ここまで職場のパワハラ(モラハラ)をテーマに記述してきた。そしてこの章の多くを良書である『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』から引用している。私はある意味で、この本に依存していると言えるかもしれない。
 ただ、私はこの第3章で「人間中心の職場作り」を「パワハラのない職場」「パワハラが起きた場合に解決できる職場」として探求している。現実に実際的に解決することがこの章の目的である。その場合に、この分野での優れた書籍である同書に依存することは、私にとって必然であった。
 この目的は同書を読んでもらったほうが達成されやすいかとも思う。一読をお勧めするのもそのためである。ただ同書は長編なので、同書の解説書として私のこの文章をお読みいただいても良いかとも思っている。そして同書の言わんとすることを歪曲していないつもりである。
 現在の職場におけるパワハラ問題は、頻繁に起き、起きているという意味で重大問題である。社会的なテーマとさえ言える。「パワハラ」という用語が流布されるようになって多くの時間は経過していない。そしてパワハラ問題についての発言は増加している。そういうパワハラ問題について、この章での私の記述が一石を投じることになれば幸いである。

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代表取締役 砂田好正

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第2章 「戦場」としての職場