私の職場論 −− 『人間中心の職場作り』

第4章 人間中心の職場作り

★パワハラのない職場
 前章において、「職場で横行するパワハラ(モラハラ)」について考えてきた。私には、現代の職場について考えるとき、ネガティブな要素としてのパワハラを考えることが不可欠だと思われた。それほど多くの職場でパワハラ行為は横行しているのであり、この第4章「人間中心の職場作り」を考える前に不可欠な思考だと思えた。
「パワハラが横行する職場」では、社員のモチベーションは下がってしまう。そこでは職場の関係性、すなわち上司と部下の人間関係、社員同士の人間関係が悪い。そしてそれらの関係性が悪いということは、社員が働く職場環境が悪いということである。社員のモチベーションが下がり、その結果、職場の生産性も下がってしまう。逆に、パワハラのない職場においては、職場の関係性は良好であり、社員のモチベーションは上がる。
「パワハラのない職場」と「人間中心の職場作り」とは、非常に近しいと私には考えられた。職場についての根本において、両社は共通しているのであり、多くの面で重なり合うのである。そこで、もう少し『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』の著作から引用しながら、「人間中心の職場作り」を考えていくことにしよう。

★快適に働ける関係性
 周囲の人間の支えということであれば、モラル・ハラスメントの場合、実を言うと、家族や友人の支え以上に、職場の人間の支えがあることが望ましい。だが、この支えはなかなか得ることが難しい。モラル・ハラスメントが「変質的な」人間によって行われていれば、「火のないところに煙は立たない」式の噂が広まり、被害者に対する同情は集まらないからである。また、被害者が本人に責任のないことで攻撃されているとわかれば、なおのこと、周囲の人々は被害者をかばいにくくなる。責任のないことで攻撃されるのであれば、下手にかばって、今度は自分が標的にされたらかなわないからである。自分以外の人間が標的になってくれたのは、むしろ喜ぶべきことなのだ。というわけで、被害者に対して行われている行為が不当だと感じていても、自分の職を守るために、つい被害者から距離をとってしまうのである。
 だが、私のもとに相談に訪れた被害者たちは口をそろえてこう言う。「どんな短い言葉でもいい。ほんのちょっぴり励ましてくれれば、それが何よりの助けになる」と・・・。これはうなずける。というのも、モラル・ハラスメントの状況でいちばん辛いのは、ひとりぼっちにされてしまうことだからである。
(P328「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「モラル・ハラスメントに抵抗するための要素」)

 社員のモチベーションを上げる要素として、給与の多寡、労働時間の多寡、休暇の取りやすさなどの労働条件が大きなものであることは言うまでもない。しかしそれ以上に、社員のモチベーションを高めるために、快適に働ける、職場の良好な関係性が作られることが大切だ。その場合の良好な関係性とは、それぞれの社員が相互に支え合う関係になることである。
 この引用文では、パワハラの被害に合った場合に、ほかの社員がなぐさめ、励ますことによって救済されることが多いと述べられている。しかしこの社員間の良好な関係性というのは、パワハラの被害を受けた場合だけでなく、いかなる職場の場面でも必要なことだと考えられる。その結果、社員のモチベーションは高まり、生産性も上がる。
「人間中心の職場作り」をするために、管理職はもちろん、すべての社員がそのことを念頭において働きたいものである。それぞれの社員が相互に支え合う関係性を構築したいものである。ここからは、その良好な関係性を構築するための働き方、管理の仕方、制度のあり方を考えていきたい。

★職場における人間関係
 こうして、職場では仕事上の対立や感情の行きちがいなど、さまざまな人間関係の問題が生じるのであるが、人間関係の問題であるだけに、当事者同士が話し合ったり、お互いを理解することができれば、状況は大きく改善されるものである。もし当人同士でそれができなければ、まわりの人間が手伝ってやればよい――管理職というのは、まさにそのためにいるのだ! だが、ここでそういった揉めごとの芽が摘まれず、逆に社内の派閥争いや、そうでなければ<変質的な>人間に利用されれば、この状況はたちまちモラル・ハラスメントに進んでしまうだろう。その場合、当事者同士は、普通の時以上に、自分たちではもうどうすることもできないからである。(P346「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「仕事上の対立や感情的な行きちがい」)

 この引用文でわかることは、ちょっとした仕事上の対立や感情の行きちがいによって、パワハラ行為が横行してしまうということである。つまりちょっとして人間関係のあつれきが、パワハラ行為を誘発してしまうのである。その結果、くり返しになるが、社員のモチベーションを下げ、生産性を下げてしまう。
 職場で働く社員への、どのアンケート調査を見ても、職場で働きたくない、退職したいと思う理由は、「人間関係が悪い」というものである。多くの職場で働く社員が、「人間関係」で苦しんでいる。その背後にパワハラ行為が隠れていることも多いだろう。それほどに職場の人間関係を良好なものに維持することは難しい。
 次節以降では、人間関係を良好なものに維持するにはどうすべきかを考えてみたい。人間関係の改善は非常に難しいことだが、その問題を避けては、「人間中心の職場作り」を達成することはできない。職場における最大の関係性の問題が人間関係なのだ。

★コミュニケーションの促進
 現実の企業というものは、一方でコミュニケーションの研修に社員を参加させておきながら、もういっぽうで自由な発言ができない態勢になっていることが多い。こういった状況のなかで、どうやったら社員のコミュニケーションを活発にすることができるのだろう?(中略)企業にとって大切なことは、ともかく話を聞くことである。まずは社員の声に耳を傾けること。とりわけ、病気や個人的な悩み、職場の人間関係などが原因で一時的に能力を発揮できずにいる社員に対しては、できるだけ声をかけて、話を聞くことが重要である。(P448「具体的な予防戦略」「社員の間のコミュニケーションを活発にさせる」)

 だが、このあとにもまた述べるように、管理職としてもっと大変な状況にあっても、部下を尊重し、部下の話を聞き、その批判を受け入れて、自分のやり方を反省することはできるはずなのだ。(P340〜341「第12章モラル・ハラスメントに関わる人々」「加害者になる人はどんな人か」)

「職場におけるコミュニケーションの促進」が大切なことは言うまでもない。しかし上司にとって「コミュニケーションの促進」というと、会社の方針とか、仕事の指示とか、仕事の目標というものを部下に伝える、いわば「上意下達」することだと考えがちである。また同僚間のコミュニケーションにおいても、自分の仕事の仕方、考え方というものを相手に話して伝えるとことが最重要だと考えがちである。
 もちろんこうした能動的な姿勢も大切ではあるのだろうが、むしろ、よく聞く、という受動的な姿勢も必要ではないだろうか。上司は部下の話をよく聞き、同僚間においても相手の話を聞くことが重要なのである。「コミュニケーション」というのは、あくまでも双方向なものであり、「話して聞く」のであり、「聞いて話す」のである。つまり相手の話を「よく聞く」という行為が非常に大切である。
 とかく私たちは、「話す」ことが大切だと考えがちである。しかも職場というのは、強引に自分の考え方を主張する、そうした社員が評価されやすいという傾向がある。
 しかし私は、コミュニケーションの促進のために「聞く」ことの重要性を強調したい。それが人間関係の改善に寄与すると考えたい。それによって、パワハラ行為のない働きやすい、「人間中心の職場作り」に近づくことができるように思う。

★競争ではなく共生
 それでなくとも、企業のなかでは、「誰かと競争して権力争いをする」というのが会社員としての普通の状態になっている。そこでは人は相手の言うことに興味を持って耳を傾けるのではなく、どうやったら相手を蹴落とすことができるか、そればかり考えている。その結果、社内には警戒心ばかりが強まり、それと同時にあらゆる創造性の芽がつまれてしまう。何か新しいことをしようとすると、その計画はつぶされ、上司や同僚の皮肉や嘲笑を浴びることになるのである。これは要するに、企業そのものの体質がモラル・ハラスメント的になっているということである。(P94「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「権力を得るために人を物扱いするということ」)

 いまから10年以上前になるだろうか。大企業はもとより、中小企業においても給与の「成果報酬制度」が急速に導入された。それから10年以上が経過するわけだが、この制度は失敗だったと言われている。いまだに社員の評価制度のある企業は多いが、それによる過度な「成果報酬制度」は、社員のモチベーションを下げてしまうという指摘がされている。
 その原因はどこにあるのだろうか。私は、成果報酬制度は社員間の競争意識を高める目的をもったものであり、そこに失敗の原因があると思う。現在も、社員の働きぶりを評価し、それを給与にある程度反映させることは、制度として残っている。その一方で、過度な成果報酬制度は後退している。それは、成果報酬制度の目的が、社員間の競争意識を過度に促進することであり、気持ちよく働くことのできない職場になってしまうからではないだろうか。
 私は、過度な競争意識の促進は、職場の雰囲気を悪くすると思う。お互いの疑心暗鬼を生み、人間性を阻害することにつながると思う。社員間の人間関係においては、「競争」理念ではなく「共生」理念が必要である。そこに「人間中心の職場作り」の要点がある、と思う。
 社員の働きぶりを評価し、その成績をある程度給与に反映させることは必要かもしれない。それが社員のモチベーションを高めるために必要だと考える経営者も多いだろう。ただ、その場合も、その評価が公平なものでなくてはならない。その制度設計は非常に難しく、完全に公平な制度はなかなか作りづらい。それも私が成果報酬制度導入に消極的になる、もう一つの理由である。
 過度な競争意識を抑制することは、パワハラ行為を減らし、「人間中心の職場作り」に不可欠である。職場で働く社員が、お互いに共生理念を持つことができる制度を、経営者や管理者には考えてもらいたいものだ。

★社会人としての法令順守
 企業というのは、社会の倫理に恥じないまっとうな経営を行われなければならない。そういった経営が行われれば、社員たちもまた健全に行動するものである。健康な企業からは、モラル・ハラスメントは生まれないのだ。企業が人を大切にすれば、そこで働く社員たちはそれに応える。あたりまえのことだ。(中略)いや、もちろん、なかには真剣に企業倫理について考えて、企業活動のなかで実践していこうとする素晴らしい経営者たちもいる。だが、それ以外の経営者たちは、自分の良心をごまかすためか、そうでなければ、ただ格好をつけるために、「倫理」という言葉を口にしているのにすぎないのだ。(P452「第14章予防する」「利益と倫理」)

 いや、「利益を追求する」という目標それ自体がモラル・ハラスメントに結びつくわけではない。企業であるからには、「利益の追求」という目標を掲げるのは当然である。問題は、どんな手段でその目標を達成するか、ということなのだ。その手段があまりにも性急で、社員の人間性を考慮に入れないものであれば、モラル・ハラスメントに結びつく――そういうことなのである。(中略)
 したがって、問題なのは、利益をあげるためなら、たとえば法に触れるようなことまでして、それを隠すような企業である。こういった企業は、目先の利益を追求することだけに夢中になるので、社員のことも道具のようにしか考えていない。そこで、モラル・ハラスメントが起こるのである。ところが、「最近の社員は能力が落ちた」とか、「忠誠心がなくなった」とか、嘆きの言葉を口にする。だが、そういった企業でトップになるのは、利益をあげるためならなんでもしてきた、よほど恥知らずな人間だけである。これでは職を失うのを恐れて、その会社に残っている社員たちがかわいそうだ。
(P275「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「恥知らずなシステム」)

 私たちは、様々な会社と、顧客として接している。そして私に限らないと思うのだが、その会社の社内の人間関係が良好だと、気持ち良く担当者に接することができる。逆にぎすぎすとした悪い雰囲気の社内だと、不快になり、商談も躊躇しがちである。長年、顧客として付き合うことのできる会社とは、社内の人間関係とか、雰囲気が良い会社である。
 それでは、良い人間関係で、良い雰囲気の会社とは、どのような会社であろうか。それは、経営者、管理者、社員のそれぞれが、社会人として法令順守している、法律を守っていると思われる会社である。たとえば、日本には労働基準法という労働者のための法律があるが、それがきちんと守られているような会社は、結果として良い人間関係が生まれる。私たちは、そういう会社とは顧客として接しやすく、商談を進めたくなる。また、取引業者に対して様々な法律をきちんと守っている会社は、これも結果として人間関係が良好で、雰囲気の良い会社になる。会社とは、取引業者と共存共栄するというのが前提であり、過度な価格交渉などは、法律・倫理を守るという精神からはかい離している。そこに適切な企業倫理、企業ルールの実践はない。
 こうして考えてくると、経営者、管理者、社員それぞれが社会人として法律を守り、社会的役割をきちんと果たしている会社が、人間関係も良好になり、雰囲気の良い会社であると言える。そういう会社では、パワハラ行為も起きにくい。その結果、会社としての生産性も高まるのだ。

★責任の所在の明確化
 現代の社会では責任の所在が曖昧になって、誰もがはっきりと責任をとろうとはしなくなっている。何であろうと、責任は人に押しつけ、自分は被害者のような顔をする――それがひとつの風潮になっているのだ。企業においてもそれは同じで、これが以前のようにピラミッド型のシステムであれば、まだしも責任の所在ははっきりしていたのだが、現在のようにネットワーク型のシステムになると、人に責任を押しつけるのはますます容易になってくる。その結果、たとえ明らかな失敗を犯したとしても、企業の経営者は責任をとろうとはしない。「自分の知らないところで、部下がやった」というわけだ。同様にして、部下や同僚にモラル・ハラスメントを行った人間も、自分に責任があったとは認めない。悪いのはほかの人々であり、そうせざるを得なくした会社のシステムなのである。(P276「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「曖昧な責任の所在」)

 一般的に、組織の管理原則として「責任と権限の一致」というものがある。そしてパワハラ行為が顕著になるのは、この原則が守られなかったときである。すなわち、権限ばかりを振りかざし、責任を取ろうとしない行為自体が、パワハラだと言って良い。その結果、社内の秩序が維持できなくなり、さらに過酷なパワハラ行為が横行することになってしまう。
 たとえば、部下が退職したとする。その部下は、権限を振りかざす上司に不満があったと思われる。部下に対して業務の指示などの権限を振りかざしていたのであるから、上司は、その部下が退職したことに大いなる責任があるはずだ。ところが、多くの会社の管理者はその責任を取ろうとしない。
 この引用文では、ピラミッド型組織ならまだしも、ネットワーク型組織になって、さらに責任を取ろうとしない管理者が多くなっていると述べられている。確かに、ネットワーク型組織において責任があいまいになったことは事実である。しかし、ピラミッド型組織においても責任を取ろうとしない管理者は増えているのであり、制度として管理者の責任を明確にすることが必要だと考えられる。そういう管理者が、「人間中心の職場作り」には必要不可欠ではないだろうか。

★管理のあり方@人間性の認識
 いや、職業人としての存在ばかりではない。企業の幹部が業績のことばかり気にして、社員が人間であることを忘れると、社員が持っている能力や技術など、有用性でしか社員を判断できなくなる。だが、そうやって、いわばチェスの駒のように扱われた社員たちのほうは、人間としての存在を認めてもらえていないという気持ちから、反抗するか、逆に絶対的に服従してしまう。
 このように人間を道具と見なすやり方は、上司と部下の関係のなかでもよく見られる。そこでは、対等な人間同士の関係という側面が薄れてきていて、上司が部下のことを人間ではなく、仕事に必要なモノのように考えるのだ。相手がモノであれば、「ありがとう」と言う必要もなければ、「よくやった」と言う必要もない。また、注意を払う必要もない。部下はただ、役に立つかどうかだけで判断されるのである。
(P268「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「働く人間として自分の仕事や存在を認めてもらえない」)

 しかし、収益をあげるということと、社員を人間として尊重するということは、それほど矛盾することだろうか? いや、そんなことはあるまい。むしろ、この二つは密接に結びついているとさえ言える。実際、複数の会社を対象にアメリカで行われた研究によると、単に労働環境を整えるという以上に、会社が社員の状態に注意を払うようにすると、会社の業績は伸びるという結果が出ている。(P271〜272「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「働く人間として自分の仕事や存在を認めてもらえない」)

「人間性を認める」とは、言うはやさしいが、実際にはこれほど難しいことはない。そのことが、この第4章全体のテーマとなっているとさえ言える。ただ、その一つの理解として言えば、機械のような労働力とは違う、あくまでも「人間」である、ということだろう。
 私たちは多くの場合、労働の対価として金銭を稼ぎ、生活を成立させている。だから、私たちは自分の労働を機械のように考えがちだ。生産性本位の管理はそういう考え方から派生する。
 私たちは機械であるわけではもとよりない。あくまでも人間である。感情を持った人間である。そのため、感情とか心理を無視された場合、労働のモチベーションは下がってしまう。逆に、人間として配慮の行き届いた管理(マネジメント)がなされれば、モチベーションは上がる。その結果、生産性が上がり、業績も上がる。安易に社員を労働力として、機械のように管理することは避けなければならない。

★管理のあり方A仕事を認める
 今度は仕事とアイデンティティの問題。個人のアイデンティティを形成するなかで、仕事の占める割合というのはかなり大きなものである。仕事は自分の能力の証しであり、人生の目的であり、また夢でもあるからだ。もしそうなら、自分がした仕事をきちんと認めてもらうことは、アイデンティティを保つうえで非常に大切なことになる。ちなみに、精神科医の立場から言えば、まわりの人々から存在を認めてもらえない人は、落ち込んだ気分のなかで、自分を否定するしかなくなってしまう。相手の存在を認めないというのは、モラル・ハラスメントで加害者が被害者に対してすることである。相手を無視することによって、象徴的に相手を消してしまうのだ。
 そこまでいかなくても、会社で働く人間は、仕事の成績はどうあれ、職業人としての存在が認められていないと、やる気を失い、一生懸命仕事をしようとしなくなる。
(P267「第11章モラル・ハラスメントが行われやすい環境」「働く人間として自分の仕事や存在を認めてもらえない」)

 この引用文には、社員のモチベーションを高め、気持ち良く働くために重要なことが書かれている。まず、私たちにとって職場で働くこと、すなわち仕事とは、アイデンティティを保持する重要な要素である。そのくらい、自己に占める仕事の比重は大きいのである。そのため、その仕事を認めてもらえないと、自分の存在そのものが否定されるような気持ちになってしまう。これでは、モチベーションは高まらない。逆に仕事を認めてもらい、評価してもらえばモチベーションは高まる。その結果、良い雰囲気の職場になり、パワハラがなくなり、業績も上がる可能性が高い。部下の仕事を認めてやれる管理者なり、組織の理念、組織の文化が待たれている。

★管理のあり方B組織秩序の醸成
 モラル・ハラスメントの問題というのは、煎じ詰めて言えば、社内の秩序の問題である。すなわち、社内の秩序が乱れれば、モラル・ハラスメントが生まれる。したがって、モラル・ハラスメントを防ぐためには、まず現場の管理職たちが課内や部内の秩序を建てなおし、「変質的な」行為が行われているのに気づいたら、処罰も辞さないといった態度で臨むことが大切である。何がしてよい行為で、何がしてはいけない行為なのか、それをはっきり部下たちに伝えるのは、現場の管理職の役割である。だが、そのためには、もちろん上層部のサポートが必要である。いっぽう、上層部のほうは、管理職に対してただ利益をあげることだけを要求するのではなく、人間として部下を尊重することを教えなくてはならない。部下に対して横暴な管理職、病的なふるまいをする管理職、妄想症的な管理職がいたら、いくらその部署の成績がよくても、そのままにさせておかず、注意を与えることが重要である。
 そういったことから考えると、企業の経営者や幹部たちにできることで、モラル・ハラスメントを防ぐのにいちばん効果的なことは、おそらく、モラル・ハラスメントを禁止する内部規則をつくることだろう。すなわち、成文化した規則をつくることによって、「モラル・ハラスメントは許さない」、「モラル・ハラスメントを行ったら罰を与える」という姿勢を示して、その規則を守るよう、上から下まで徹底させるのである。それによってまた、モラル・ハラスメントの予防というのは、専門家が唱えるお題目ではなく、社員ひとりひとりの責任において行われるものだということを社員たちに伝えていく。もしそういった社内規則ができれば、モラル・ハラスメントの予防にとって、これ以上強力な味方はない。
(P450〜451「第14章予防する」「防止する規則をつくる」)

 この引用文で述べられているように、職場でパワハラ行為が起こらず、快適に働けるようにするためには、秩序を整え、社員が業務に集中できる環境をつくることである。そのことが会社の業績を上げるうえで大切である。
 職場の秩序を整えるためには、管理者が正しい指導をすることが大切である。その場合、管理者が部下の人間性を尊重しなければならない。
 この引用文では、職場のシステムとしてパワハラを禁止する内部規則をつくることが推奨されている。会社としては、職場にはパワハラが起きやすいということ、それはあってはならないこと、そのことを内部規則において明文化することが大切である。

★管理のあり方C人材の多様性の確保
 企業というのはそれ自体が毛色の変わった社員というか、型にはまらない社員を嫌う傾向にある。そこで組織に合わない人間を追い出したり、その人間を駄目にしようとしたりして、モラル・ハラスメントが行われる。グローバル化が進むこの時代、企業はどこからどこまでそっくりなクローン社員、あるいは取り替え可能な知的ロボット社員を求めているのである。自分たちの属するグループを均質化するために、人々は性格であれ、人種であれ、異質のものを排除して、打ち砕いていく。そういった性向は企業も変わらない。だいたい、同じ型の社員であれば管理もしやすい。そうして社員が企業の思うとおりに動けば、生産性が高まり、収益があがると考えるのである。(中略)モラル・ハラスメントはグループの論理を押しつけるひとつの方法なのである。(P54〜55「第2章モラル・ハラスメントであるもの」「自分とはちがうものに対する拒否感」)

 会社などの組織の中でパワハラが行われる場合、異質な人物を被害者にする傾向がある。障害者、外国人など、自分と異質な人物を被害者に仕立て上げるケースが多い。その結果、快適に働くことのできない雰囲気の悪い職場になり、業績も悪化しやすい。
 そこで、管理者としては、社員の多様性を確保するような制度を導入することが必要である。障害者や外国人を採用し、人材の多様性を図る必要がある。
 日本では現在、会社に対し、ある一定程度の障害者を雇用することを義務づけている。その制度は障害者に働く場を確保するためのものである。
 一般的に、障害者を雇用すると、生産性が下降すると考えがちである。ところがある会社では、その義務以上の比率で障害者を雇用している。その理由として、健常者と異質な障害者を雇用することによって、社員間の人間関係が良くなるからだという。すなわち、健常者と異質な障害者とが、同じ職場で共生することによって、つまり社員の多様性を確保することによって、お互いに思いやり精神が醸成され、人間関係が良くなるのだ。
 このようなケースからも分かるように、障害者や外国人など、異質な人材を雇用し、多様な人材で構成することによって、想定以上の効果を上げることがある。人材の多様性を図ることによって、それぞれの社員にとって働きやすい職場となるのであり、業績が上がる可能性が高いのである。そのような管理のあり方を採用することが、思わぬ効果をもたらすのである。

★集団としての組織=性悪説
 職場とは、会社などの組織においての、その組織員が仕事をする場所である。僅かな例外を除けば、複数の人々で、集団で仕事をする。私は、職場という場を持つ会社などの組織について、性悪説を採用している。
 そもそも、仕事というのは一人でできるものではなく、複数の人々が関わるチームで遂行される。その集団が、集団である故に大きな成果を上げることもある。集合知としての優れたアイディアが生まれることもある。
 しかし一方で、法律を逸脱してしまうような経営や管理や戦略が遂行されてしまいがちなのが、組織としての会社なのである。法令順守するのが難しいのも集団としての組織なのである。しかも集団としての組織故に、法律の逸脱を加速させてしまうのも、また組織なのである。そのことが、私が、組織=性悪説を唱える基本的な理由なのである。
 私は、組織運営としての経営管理において、労働基準法を守ることが大切だと提唱している。日本の労働基準法は、労働法として優れた法律であり、経営陣や管理者がそれを守ってほしいというのが、私の考え方である。
 このことは、管理手段として当たり前のように思う読者がいるかもしれないが、労働基準法を守らない会社が多いのが、実状なのである。最低限の労働条件を示した労働基準法さえ、多くの会社が守っていないのだ。その結果、職場の人間関係を荒んだものにし、パワハラが横行し、働きづらい職場となってしまうのである。
 では、顧客対応としての経営戦略についてはどうだろうか。最近では有名レストランの食品素材の偽装問題が浮上している。談合など価格設定についての独禁法違反事件も頻繁に起きる。こうした事例を持ち出すまでもなく、経営戦略においても同様に法令違反が後を絶たない。これらは顧客への何らかの裏切りであり、利益偏重の経営戦略として糾弾されなくてはならない。そして一方で、
 会社などの組織がこのような悪しき経営戦略を採用していることと、社内の秩序が乱れることとは、共通の基盤を持っているように思われる。決して無関係ではないのだ。
 私の組織=性悪説は、以上のような法令違反の頻発に接したうえでの説である。私には集団としての組織は、法令違反を犯しがちだと思える。その悪しき仕事ぶりを加速させてしまうと思うのである。そして、少なくても現状では「組織=性悪説」と言い得ると思うのが、私の認識である。

★社会に開かれた会社組織
 組織=性悪説を採用する私であるが、そのもう一つの理由は、社会から隔絶した、閉ざされたものに、現在の会社組織はなっている、という点にある。
 企業活動というのは社会的活動であり、社会的ニーズのある商品を創造し、販売する機能を持っている。そのため本来的には、社会に開かれて活動しなくてはならない。しかし、現状の会社組織は、社会から隔絶した閉鎖社会になっている。具体的に言えば、社会人としては許されないことが、会社組織においては許される、そんな性格を持ってしまっている。社会の価値観が、会社組織の価値観と一致しないのである。
 そういう傾向を持つ会社組織だからこそ、法令に違反するような事態が次々に起こるのではないか。声高に法令順守が叫ばれても、前節で指摘したような法令違反が次々に起こってしまっている。私が、組織=性悪説を唱える一つの理由も、会社組織が外の社会と隔絶した閉鎖社会になっているというところにあるのだ。
 私たちは「会社組織だから許される」という価値観を捨てる必要がある。会社組織というのは、あくまでも社会的存在であり、社会的価値観、社会的ルールが守られる必要がある。そういう意味で、会社組織が社会に開かれた存在になることを期待したい。
「人間中心の職場作り」においても、同様の考え方が採用されなくてはならない。一般の社会において許されないことは、会社組織においても同様に許されるべきではない。たとえば、他者を傷つけるような言動や行動は一般の社会で許されないとすれば、会社組織においても同様である。会社組織だから許される言動や行動というものはない。そういう意味で、社会的価値観、社会的ルールが、職場においても守られる必要があるのだ。「人間中心の職場作り」を目指すうえで、欠かしてはならない考え方ではないだろうか。

★個人に対する性善説の採用
 私は、前節で「組織=性悪説」を採用すると述べた。その理由も述べたつもりである。一方、私は、職場で働く会社員、その個人については性善説を採用したいと思う。性善説となる得る可能性を、個人は持っていると思うのである。
 私は、この論述の第2章で、職場というのは一種の「戦場」であると述べた。戦場は、人間の生命を左右する場であり、たいへん過酷な場である。そこでは人間性を確保することが非常に難しい。多くの個人(兵士)が人間性を失った行為・行動に走ってしまう。しかし、そういう過酷な戦場でも、人間性を失わず、他者への配慮を欠かさない個人(兵士)はいるのである。私たちは、戦争を扱った小説などで、そういう人間としての尊厳を失わない個人(兵士)がいることを知っている。
 職場が「戦場」に準えられるとすると、職場にいる個人(社員)にも同じことが言える。職場においても人間としての尊厳、良質な人間性を失わない、他者への配慮が行き届いた個人(社員)は、存在し得ると思うのだ。お互いに気持ち良く働けるように配慮できる個人(社員)は存在し得ると思うである。私たちは、誰でもがそういう可能性を内包した個人(社員)であり、それ故に私は、職場における個人(社員)について、性善説を採用したいのだ。
 私を含めた個人にとって、この性善説たる人間としての道は、決して簡易なものではないだろう。そこには人間としての鍛錬や努力が必要だろう。私はそういう個人になることの難しさを感じる一人であるが、これからの人生でそういう人間を目指して努力していきたいと思う。そして職場で働いていると、そういう貴重な人間性を保持した個人(社員)、人間としての尊厳を備えた個人(社員)に出会うことができるのだ。そういう人間になるために、鍛錬し、努力したいと思う。

★円・ユーロ交換の仕事
 ドイツのハノーバーという都市を旅したときの話である。セビットという情報関連の展示会を視察に行ったのである。
ある日、円をユーロに交換しようと思い、それが可能な銀行を探した。道路わきに銀行らしき建物があったので、そこで「エックスチェンジ」とかなんとか言って、可能な場所を尋ねた。すると応対した中年の男性は、親切に場所を教えてくれた。
 その指示に従って歩いて行くと、確かに交換が可能と思われる窓口を発見した。そして列に並び、窓口の男性に数万円を渡して、ユーロに交換してもらったのである。その日は、窓口の男性は当たり前のように、電卓で計算して交換してくれた。
 翌日、まだユーロが足りないと思った私は、同じ建物の、同じ窓口に並んだ。その窓口には前日とは違う中年の女性が座っていた。私の番が来たので、この日も数万円を渡し、ユーロに交換してもらおうと思った。この時も、「エックスチェンジ」とか言って、片言の英語で要請したのである。ところが、その中年の女性は「ノー」と言うのである。私は、「イエスタディ・アイ・キャン」とか片言の英語で言っても、「ノー」と言うだけである。私はユーロへの交換を諦め、目的を達することができなかった。その窓口は明らかに交換が可能な場所であった。前日は交換ができたのだから、そう考えざるを得ない。しかし、翌日の中年の女性は、円・ユーロの交換をする計算能力を持っていなかったのである。
 ドイツ・ハノーバーという都市は、大規模な展示会場があるとは言え、ドイツの中でも決して大都市ではない。円・ユーロの交換をする計算能力のある人材は少なかったのだろう。それでも、その中年の女性が雇用され、窓口にいたことが、日本人の私には意外だった。
 この交換できなかった直後の私は、軽い憤りを感じた。円からユーロへの交換業務はそう難しいことではない、と私には思えた。そしてそこが日本であれば、大いに文句を言っただろうと思った。周りも許さないだろうと思った。
 しかし、いま思うことは、私は仕事というものを堅苦しく考えすぎている、ということである。できるのが当然、能力のないのはおかしい、と堅苦しく考えている私のほうがおかしい、と思うのである。そして、私の考えは、能力のない中年の女性を責めるのではなく、寛容さを持って許すべきということに至った。
 このドイツでの体験を経て、他者の仕事に対し、寛容な考えを持つようになった。そのくらいの寛容さが必要だと思うようになった。もちろん、たとえば交通機関などの安全性を要請される仕事において、その主テーマとしての安全性が確保できないのでは困る。その職種には厳密さが要求されるだろう。交通機関としての社会的役割を果たしていないことになるのだから当然だ。
 しかし今回、私が経験した窓口の女性の職種は、交通機関のような厳密さを要求されるものではない。もっと鷹揚に考えても良い仕事の分野ではないだろうか。私たち日本人は、ある分野の仕事に対し、それに関わる就業者の能力について、過度に、厳密さを要求しているのではないか。
 過度に堅苦しい要求が、厳密さが「人間中心の職場作り」を阻害している。そしてドイツのハノーバーにおける、鷹揚と言える仕事の能力についての価値観に、いまは好感さえ覚えるのである。私たちは、ある分野の仕事に対しては、従業者の能力に対して寛容な価値観を持つべきである。読者の皆さんはどのようにお考えだろうか。

★「人間中心の職場作り」とは
 この第4章は「人間中心の職場作り」について私なりに考えている。この章は、全体の中で、結論としてもっとも重視されるべきである。成果として記述されなければならない。
 しかしこの章の構成は、アット・ランダムなものになってしまっており、必ずしも明確に成果として記述できていない。もちろん私は、真摯に考えてきたつもりだが、その実現という面において、その処方箋を明確には記述できていない。全体の論述の中で、もっとも難しかった。
 しかも『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』の書籍に依存している部分が多い。いかに良書だと感じたとしても、著者として無責任だとの批判は免れないだろう。その原因は、もちろん私の力不足にある。
 また「私の職場論」と断っているように、日本の状況から言って、必ずしも客観性のあるものではないとも思う。そして、私が実現したいと思う「人間中心の職場作り」を実践している会社は稀であり、逆にパワハラが横行する人間不在の職場のほうが多いという現実がある。そのことが、結論・成果としてのこの章の記述を難しくした一方の原因である。
「人間中心の職場作り」というのは、私が現在の65歳になるまで、いくつかの職場で働いてきた経験に基づいての目標である。そんな職場で働きたいという夢である。また、そんな職場が少しでも増えてほしいという希望でもある。
 私自身は、今後も常にこのテーマを考え続けていきたいと思う。努力を傾注していきたいと思う。読者の皆さんも、ある人は会社員として職場で働きながら、ある人は経営者や管理者として職場を運営しながら、この実現に力を発揮してもらいたい。
「人間中心の職場作り」が、今日的な大きなテーマであることは間違いない。その実現のために考え続けることをお約束して、私の拙文としてのこの記述をいったん完了したい。最後までお読みいただき、ありがとうございました。(了)

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株式会社ワイズリンク
代表取締役 砂田好正

第3章 パワハラが横行する職場